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礼拝メッセージより
「宝物」 2010年9月12日
聖書:詩編 103編1-5節
宝物
昔ある人からメールをもらった。どういう方か詳しくは分からないけれども、どこかで教師をされているクリスチャンのかたで、そのメールはこんな感じだった。
『仕事で自信をなくし、「自信をなくしたとき」で検索をして先生のページ「牧師のひとり言 宝物」を見ました。今までもらってきた「励まされる宝物」をもう一度振り返り、相手にも「宝物」をあげることができるようにしたいな、と思いました。生徒に、励ます言葉をかけることから始めよう、そう思いました。ありがとうございました。』
牧師のひとり言っていうのは週報の裏に時々載せてる文章をホームページでは牧師のひとり言という名前で載せているもので、宝物ってどんなこと書いてたっけと思って見直した。
そうするとこんなことを書いていた。
『宝 物
子どもの頃の宝物は何だったかな。これといって思い当たらない。宝物の箱を開けて、しばし中の物を眺めたなんて記憶もない。
でも最近自分の宝物に気が付いてきた。苦しくなった時や落ち込んだときなどその宝物に思いを馳せる。それは現代国語の宿題に二重丸をつけてもらったことや、説教の賜物があるとメモを貰ったことや、自分の言葉に勇気づけられたとか感動したと言われたこと、そして神さまからのそのままのお前がいいと言われたことなどだ。そんな極々たまに見つかる宝物を箱にしまっておいて、疲れ果ててしまったり、何もかも思うようにいかなくて自信をなくしたとき、いつまでたってもどうにも元気が出ないときなどには、しばし箱を開けてその宝物を眺めている。そうすると少し元気が出てくる。どれもこれも誰かから貰ったものばかりだ。
今度は誰かに宝物をあげられるようになれればいいな。 』
苦難
詩編103編では、わたしの魂よ、と繰り返されている。
自分で自分に呼びかける、自分の魂に語りかけるというのはどういうことなんだろうか。どんな状況なんだろうか。
主をたたえよとか、主の御計らいを何一つ忘れてはならないなんて言う時ってどんな時なんだろうか。
それはさっき言ったような、苦しい時や落ち込んだ時に宝物を眺めるような時なんじゃないかと思う。
103編の後のところではそんな宝物の話しが出てくるような気がする。
主はお前の罪をことごとごく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け、長らえる限り良いものに道足らせ、わしのような若さを新たにしてくださる。
これはこの詩編の作者が聞かされてきた、或いは体験して感じてきたことだったんじゃないかと思う。けれどもいろんな苦しみに遭う中で、そのことをもう一度確認しようとしているのじゃないか、或いは思うようにいかないことに直面して自信を無くしてしまっているような時なのかもしれないけれども、あの時神は助けてくれたじゃないか、支えてくれたじゃないか、と改めて振り返っているということなんじゃないかと思う。
モーセやイスラエルの話しまで思い出している。エジプトでの逆境から神が救い出してくれたということはイスラエルの人たちにとっては神の救いの象徴でもあるのだろう。そして約束の地につくまでには、神の命令に背いて金の牛の像を造って拝むなんてこともした。しかしそれでも赦されてきた。そのほどに主は憐れみ深く恵みに富んでいる、忍耐強く、慈しみは大きいということを振り返っている。
逆に言うとそれほどにこの詩編の作者は苦しんでいる、自分の罪深さ、自分の無力さ、だらしなさに打ちのめされているんじゃないかと思う。
自分の罪に応じて罰せられるならば自分はどうなってしまうか分からない。自分の駄目さに応じて苦難がやってくるとしたらとても生きていけない、そんな思いがあるような気がする。
でも、主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく、わたしのたちの悪に従って報いられることもない。天が血を超えて高いように、慈しみは主を畏れる人を超えて大きいのだ。そして父がその子を憐れむように、主は主を畏れる人を憐れんでくださるのだ。
この人はそういうことをずっと聞かされてきていたんじゃないかと思う。理屈としてはよく知っていたんじゃないかと思う。そして自分の罪に悩み苦しむ時、宝箱をじっくりと眺めるように、改めてそのことに直面している、じっくりと受け止めているんじゃないかと思う。
そうだった、神の憐れみは偉大だった、そう感じているんだろうと思う。
見えないものを
神は見えないし感じられない。そして人生には苦しいことがいっぱいだ。一体どうなるんだという不安に押しつぶされそうになることも多い。
でも私たちには神からの宝物を貰っているんだろうと思う。今まで守られてきたこと、支えられてきたこと、また神からの約束の言葉、そんな宝物をもう私たちは貰っているんだろうと思う。
「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」(コリント二4:18)
目に見える苦しい状況に目を奪われがちだけれど、見えない神の守り、神の支え、神の約束をしっかりと見ていきたいと思う。