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礼拝メッセージより
「礼拝への招き」 2010年9月5日
聖書:詩編 100編1-5節
歌
そもそも神殿の門を通って庭へと入っていく時に歌う歌なのだそうだ。聖書教育には1-3節は神殿に入っていく巡礼者によって歌われて、4-5節は神殿の中にいる聖歌隊によって歌われたとも考えられると書いてある。礼拝への招きの歌なのだそうだ。
命令
その歌の中身だが、1節では、全知よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ、と言われている。
ただ喜びの声をあげよではなくて、喜びの叫びをあげよ、と言う。それに続けて喜び祝い、喜び歌って、と喜びが続けざまに三つ出てくる。
これが礼拝への招きの歌ということだとすると、礼拝とは喜ぶことのようだ。礼拝で一番大事なのは喜ぶことかもしれない。だから喜び喜べと繰り返されているのだろう。
続けて、知れ、と言われる。何を知れなのかというと、まずは主こそ神であること。そして主はわたしたちを造られたということ。そしてわたしたちは主のものであり、主の民であり、主に養われる羊の群れであるということ。
さらに続けて、感謝の歌をもって主の門に進み、讃美の歌をうたって主の庭に入れと言われる。感謝をささげ、御名をたたえよ、と繰り返し言われる。
こう見ていくと、前半はみんな命令だ。叫びをあげよ、進み出よ、知れ、主の庭に入れ、たたえよ、というように1-4節はみんな命令だ。
そして5節が、なぜそうするのかという理由になっているらしい。主は恵み深く、慈しみはとこしえだから、また主の真実は世々に及ぶから、だから喜びの叫びをあげ、御前に進み出よ、ということらしい。
主のもの
しかし喜びの叫びをあげよと言われてもなあと思う。何かいいことが自分に起こったら、あるいは物事が自分の願いどおりになったら、あるいはまた自分の心配事が解決したら、その時には喜びの叫びをあげる気にもなる。やったーと言いたくもなる。でも現実にはそんなことはほとんどないような気がして、思い通りにいかないことばかりが多くて、悩み事や心配事が目白押しだ。だから喜びの叫びをあげよ、なんて言われてもなあと思う。
今日の詩編の中にも、主は恵み深いと言われていて、そんな恵み深い主ならばその恵みを一杯与えてくれ、と思う。恵みをいっぱい与えてくれたら喜びの叫びをあげるだろうと思う。そんなことを考えているのはただただ欲張りなんだろうか。欲張りすぎてて満足できないのかとも思ったり。
でも3節が気になった。「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民 主に養われる羊の群れ」と言われている。特に、わたしたちは主のもの、という言葉が気になっている。
わたしたちは主のものだから、だから喜びの叫びをあげよ、と言われているのではないかという気がしてきた。さっき言ったように、神にあれとこれとそれを貰ったら、これを解決してもらったら、そうしたら喜べるんじゃないかと思う気持ちが強いけれど、実はそれよりも神のものとされているということ自体が喜びなんじゃないか、それこそが喜びなのかもしれないと思うようになった。
昔あるテレビドラマの中で、ほ乳類は群れたがる、という科白があった。群れたがるということと同じかどうかはよくわからないけれど、人間って一人じゃいられないというか、どこかに属することで安心するようなところがあるような気がする。帰属本能というのかな、どこかに属することで安心するというか安心できる、どこかにつながっていることで安心できる、逆につながっていないと不安になってしまう面があるような気がする。だからいろんな共通点を見つけて群れたがるんだろうと思う。それまで何とも思ってなかった人が、同じ趣味を持っていることで仲良くなったり、出身地が同じだと知った途端に親近感が湧いたりするような時もある。
わたしたちは主のもの、と言うことはわたしたちは主に帰属しているということだろう。わたしたちはひとりぼっちではなく主の民なのだ。実はこれこそが喜びのもとなんじゃないかと思う。わたしたちは神のもの、神の仲間、神のグループの一員。
ヨハネによる福音書15章でイエスはこんなことを言っている。
「15:1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
15:2 わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。
15:3 あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。
15:4 わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。
15:6 人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。
15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
15:8 あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。」
つながってるなんとかってテレビのコマーシャルみたいだけど、つながるって言葉がいっぱい出てくる。つながっていること、それが大事なのだろう。
どうして神を信じるのか、神を信じたらどんないいことがあるのか、と聞かれることがある。そう聞かれると苦しい。信じたらいいことだらけ、問題も心配もなくなる、のならばこんなにいいことがあると言えるのだろうけど、現実には問題も心配も尽きない。そうすると、いいこともあまりないから信じても仕方ないような気になってしまう。
でも実は神とつながっていること、イエスとつながっていること、神のものとされていること、実はそれこそがいいことなんじゃないかという気がしてきた。それこそが私たちの喜びの源なんじゃないかという気がしている。