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礼拝メッセージより
「暴力に依存するな」 2010年8月22日
聖書:詩編 62編6-13節
力
最近礼拝で一体何をしゃべったらいいのか悩んでいる。特に詩編を読むようになってから尚更だ。
ここで何が起こっているのか、何があってこういう詩ができたのかよくわからない。どういうことがあったのかがわかれば、それについていろいろと考える事も出来そうなきがするけれど、何があったのかもわからないのでそれについて話すこともできない。そして何かあった結論としてこの詩ができているのだと思うけれど、結論は結論であって、それ以上語ることもないような、その通りです、としか言えないような気がしている。
なので何をしゃべったらいいのか困ってしまっている。
これも力がないせいなのか、読解力がないせいなのかと自分の力のなさを嘆いている。
昨日からずっと力ってなんだろうって考えている。勉強したり訓練したりして力をつけることを目指してきたように思う。生きる上には力が必要な気がしている。体力だって要るし、忍耐力だって、読解力だっている。知恵も知識も必要だろう。でもこれは力がつかない。学力とか能力というと力がつく。
生きていく上でやっぱりいろんな力が必要な気がする。自分の中にいろんな力を蓄えていくことが必要なのだろう。
でもその力が外に向かっていくとやがて暴力となる。腕力は必要だけれど、それで相手を殴ると暴力になる。
神のもの
力も慈しみも神のものだと語る。
私たちは力も慈しみも神から貰っている。与えられている。そしてそれをどういうふうに使うのかが問題だ。
祈り会でもキリスト教国と言われるような国が戦争する、人をいっぱい殺すのはどうしてなのかというような話しになることがある。まったくどうしたことかと思う。キリスト教国なんて言い方自体もどうかと思う。そんなこと言えるような国は実際にはないように思うけれど、兎に角クリスチャンがいっぱいいるような国なのに、人を殺すなと教えられているのにどうして戦争をして人を一杯殺すのか、不思議に思う。
信仰は信仰、現実は現実と別物と考えているんだろうか。信仰は理想であって、実際の生活は理想通りにはいかないということなんだろうか。でもキリスト教の信仰ってただのお飾りでもなくて、単なる理想論でもないと思うんだけど。
でも相手がこちらに突っかかってきたら、守らないといけないだろうし、そうしたらそのための力も必要だと言えばそんな気もする。でも現実には相手は何をしでかすかわからないから、ならず者だから向こうが突っかかって来る前にやっつけてしまえ、ということになっているような気がする。
恐怖
やられる前にやっつけてしまうというのは、やられるかもしれない、やられたらどうしようという恐怖心があるということなんだろうと思う。
いつどこから誰にやられるかわからない、なんて思っていたらそれはそれは大変なことだ。いつ誰から襲われるかという心配があったら、おちおち町を歩くこともできない。いつ強盗に遭うかもしれないという心配があったら、家の鍵も何重にもかけないといられないだろう。
力をつけるという裏返しには案外恐怖心があるんじゃないかと思ったりしている。
今日の詩は、暴力に依存するな、と語る。それは相手に暴力を振るうなということでもあると思うけれど、それだけじゃなくて、自分自身で全ての力を持たなくてもいい、自分ひとりだけで何もかも背負わなくても大丈夫だと言っているのじゃないかと思う。
神がついているのだから、力の源である神がいるのだから、その神に頼ればいいのだということだろう。復讐するのも、それは神がすることなのだから自分でしなくてもいいということだろう。
不安になり、恐れを持つことがあっても、それも神に頼ればいいのだ、力も慈しみも神のものなのだから、とこの詩人は語っているようだ。
何か起きた時のために自分自身が力を持っていないといけないとか、何があるかと恐くて力をもっていないと安心できないから力を持つとかいうように、力に依存するのではなく、力の源である神に頼ればいいのだろう。
62:6 わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。
62:7 神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。
62:8 わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。
62:9 民よ、どのような時にも神に信頼し/御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。
なんだか自分自身に言い聞かせているかのようだ。きっといろんな恐れや不安をこの詩人も持っているのだろう。けれども神に頼ればいいのだ、ただ神に迎えばいいのだと自分に言い聞かせているような気がする。
あの時だって大丈夫だったじゃないか、あの時だって守られていたじゃないか、やっぱり神に頼るべきなのだ、神に頼ればいいんだ、神に頼るしかないんだ、そう自分に語りかけているような気がする。
この詩人は私たちにも語りかけてくれているんだろう。私たちもいろんな不安や心配や恐れを持っている。心配で心配で夜も眠れない時もある。不安に押しつぶされそうになることもある。そんなものをいっぱい抱えている私たちに対しても、神に向かいなさい、黙って神に向かいなさい、力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある、と教えてくれているんだろう。