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礼拝メッセージより
「ゆるし」 2010年8月15日
聖書:詩編 51編1-14節
ダビデとバト・シェバ
ダビデとバト・シェバの話しはサムエル記下11章のところに出てくる。
概要は、ダビデが自分の部下であるイスラエル軍が出陣している時に、王宮の屋上からたいそう美しい女性が水浴びをしているのを見て誰なのか調べさせた。そうするとイスラエル軍の軍人であるウリヤという人の妻のバト・シェバだった。ダビデはバト・シェバを召し入れて床を共にした。バト・シェバは妊娠したのでダビデにそのことを告げた。
そうするとダビデは彼女の夫であるウリヤを戦場から呼び戻して戦況を尋ねた。そして家に帰って足を洗うがよい、と言った。今の内にバト・シェバのところへ帰せば、ウリヤの子供ということになって自分が妊娠させたことも隠し通せると思ったのだろう。ところがウリヤは自分の同僚は戦場で戦っているのに、自分だけ妻のところに帰って床を共にするなんてできない、と言って帰ろうとしない。
自分の策がうまくいかないことを知ったダビデは、ウリヤを戦場に戻し、司令官にウリヤを戦いの最前線に行かせて戦死させよと命令を出し、そこでウリヤは死ぬ。その後ダビデはベト・シェバを妻とした。
そのダビデに預言者であるナタンが主から遣わされた。その話は続く12章に出てくる。
ナタンはこんな話しをした。
「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに/何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い/小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて/彼の皿から食べ、彼の椀から飲み/彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに/自分の羊や牛を惜しみ/貧しい男の小羊を取り上げて/自分の客に振る舞った。」
それを聞いたダビデは激怒して、そんな無慈悲な男は死罪だと言った。そうするとナタンは、その男はあなただ、と言った。私はあなたを王として救ってきた。妻たちも与えた。なのにどうして私の意に背くことをしたのか、と神の言葉を告げた。
それを聞いたダビデは、わたしは主に罪を犯した、と言った。
罪
そんなことから、詩編51編はその時のダビデの詩とされるようになったようだ。確かにその時のダビデの心情にピッタリの詩のようだ。
自分の欲望を満たすために人の妻と知りながら奪ってしまった。そしてそのことが発覚しないように策を練った。自分の子供だとばれなければいいと思って夫を呼び戻してみた。けれども失敗し、ならば自分の妻にしてしまえばということで、夫を戦死させた。
美人を見てむらむらしてしまって欲望を抑えられなくなったのが事のはじまりだ。それが人の妻でなければ多分問題はなかったんだろうと思う。しかし人の妻を奪うということは姦淫の罪を犯すことになる。またこの戦いは、神の箱も戦場に出て行くという聖なる戦いだったようで、兵士はみんな禁欲しないといけないことになっていたそうだ。それなのに最高司令長官であるダビデは王宮に残り姦淫していたということになる。そんなことがばれてしまっては大事だということでなんとか誤魔化そうとした。けれどもなかなかうまくいかないで、結局はウリヤを死なせるしかなくなった。姦淫から殺人まで犯すことになった。言わば自分の面子のため、自分の罪を誤魔化すため、結局人を殺してしまったというわけだ。
なんとか誤魔化していたことを、ダビデはナタンにつきつけられる。ナタンに言われるまでダビデはどう思っていたんだろうか。一部の者しか知らないならば大丈夫と思っていたんだろうか。それとも王なんだから誰から何を言われようと平気だったんだろうか。もし自分が王という立場に立ったとしたら、ダビデと同じようなことするだろうなと思う。
でもダビデには神がいた。
重荷
自分の罪を知らされること、自分の間違いを突きつけられるということはつらいことだ。
いろんな間違いやミスを犯しながら人は生きていくのだろうと思う。どこかでそれを誤魔化したり、まあいいかと思いながら生きていっている。
車をぶつけられて少し怪我をしたことがあった。その時身体は痛かったけれど、心は痛くはなかった。もし反対に自分が誰かを怪我させたとしたら、すごく心が痛かっただろうなと思う。少しの怪我なら、相手から大丈夫だと言って貰えれば、そして相手が元気になれば、それでだいたい解決できると思うけれど、相手を死なせたりした時にはどうなるんだろうかと想像するとぞっとする。
8月になってテレビでは戦争関連の話しがいっぱいある。それを見ていると戦争に関わった人たちが戦後もずっと苦しみを引き摺っているのを感じる。生き残って帰ってきたけれど、戦場で人に言えないようなことを体験し、それをほとんど死ぬまで抱えて苦労している人がいっぱいいるようだ。
今でも、イラクやアフガニスタンに行った兵士は帰ってからも苦しんでいるそうだ。彼らは敵は人間ではないという訓練をするそうだ。人間ではない、ただの物だという訓練をされて戦場に出て行くそうだ。戦場では物だと思っていても、やっぱり人間を殺したという思いがふと出てくることがある、そうするとそのことに苦しめられるのだそうだ。
日本が戦った時もそうだったのだろうか。天皇のため、お国のため、あの時は仕方なかったのだ、と思えればそれほど苦しまなくてもいいのかもしれない。けれども自分が殺したんだという気持ちになる時にはどんなに苦しいだろう。それを突きつけられるということは苦しみに向き合わされることになるんだろう。
原爆を落とした爆撃機に乗っていた人たちが、あれで戦争を終わらせたと言っているのは、あれで何万人もが死んだという苦しみに向き合いたくない、そんなのに向き合ってたら生きていられないという怖れがあるからじゃないかと思ったりしている。実際はわからないけど。
赦し
取り返しのつかないことをやってしまった。間違ったことをやってしまった。罪を犯してしまった。本当に真剣にその思いを受け止めたならば、人間は生きていけないんじゃないかと思ったりする。自分ひとりだけで、それを真剣に受け止めたならば、つぶれるしかないような気がする。
だから普通は一所懸命に弁解する。戦争だったから仕方なかった、命令だったから、あれで戦争が早く終わったから、と思う。でもその時はそれで納得したような気持ちになっても、またしばらくすると苦しみがよみがえってくるような気がする。
ダビデはナタンの話しを聞いて、神に赦しを求めた。憐れんでください、赦してください、と祈った。弁解するのではなくて、自分のことを赦してくれと祈った。
私たちも誰もがいろんな罪や間違いを抱えて、そしていろんなことを後悔して生きているだろう。あの時あんなことをしてしまった、あの時こうしとけばよかったんじゃないか、そんな苦い思いを誰もが持っていることだろう。
そんな苦しい思いを自分ひとりだけで受け止めると潰れそうな気がする。だからこそそこで祈ればいいのだろう。神よ赦してください、憐れんでください、と祈ればいいんだろうと思う。
じゃあ祈ったらどうかなるのか。よくわからない。けれどやっぱり祈るしかない。でもそこで祈ることができるということはとてもありがたいことだと思う。