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礼拝メッセージより
「主にゆだねよ」 2010年8月8日
聖書:詩編 37編1-6節
正直者
こんな話しをインターネットで読んだ。
この間ラーメン屋で30分待ちで並んでいた時のこと
前にいたオバサンが携帯でなにやらゴソゴソ話をしていた。
別に聞く気は無かったのだが、どうも買い物している友人に
今からラーメン食べるところだからこいということらしい。
それから20分位経って俺の番まで後5人位になったとき
オバサンの友人が二人現れ、こっちっこっちと呼ぶオバサンの後ろ私の前へ
何のためらいも無く割り込んできた。
あまりのずうずうしさに唖然としたが、どうにも腹の虫が収まらず
「非常識でしょう、割り込みは」と文句を言ったら
「最初から彼女たちの分も取っていたんです」と並んでいたオバサンに平然と言い返されたれた。
それを見ていたオバサンの前に並んでいた20才位の学生さんらしき彼が
私を始めその後ろに並んでいた14・5人に向かって一言
「いやー久しぶりです 皆さんの分取っておきましたから私の後ろへどうぞ」
それを聞いてオバサン達は「なんて白々しいことをするの」と学生さんに言ったら
後ろにいたリーマンが「そりゃあんたたちのことでしょ」で一同拍手
騒ぎを聞きつけたバイト君がオバサン達に決めの一言
「三人とも後ろへ並んでいただくか帰っていただくか決めてください」
オバサンたちはブツクサ文句を言いながら帰っていった。
残った皆は学生さんとバイト君に感謝の言葉を送った。
ざまあ見ろって感じだけど、実際にはざまあみろっていかないことが多い。渋滞して並んでいるところに、並んでいる前の方に割り込む車がいるといらいらしたりすることもある。時には自分でも割り込んだりもするけど。
行列だけではなく、世の中は正直者が馬鹿を見ると思えることが多いように思う。官僚はいろんな会社に天下って、その度に退職金を一杯もらっているなんて話しを聞くけれど、だから天下りをなくそうという話しも聞くけれど、実際にはなかなかなくならない。
苛立つな
今日の詩編37編では、「悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな。彼らは草のように瞬く間に枯れる。青草のようにすぐにしおれる。主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。主に自らをゆだねよ/主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らいあなたの正しさを光のように/あなたのための裁きを/真昼の光のように輝かせてくださる。」と言う。
でも実際世の中の不正はなくなってない、なくなりそうもないじゃないかと思う。
エレミヤ書12:1にも「正しいのは、主よ、あなたです。それでも、私はあなたと争い、裁きについて論じたい。なぜ、神に逆らう者の道は栄え、欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか」という言葉があるそうだけれど、正しいことを行っている、正しい者を求めている人よりも、不正を行っている者の方が金持ちになり、楽に過ごしているのは何事なのか、と神に文句を言いたくなる。
でもこの詩編は、不正を行う者のこと、神に逆らう者のことに心を奪われるな、それよりも、神に従え、神を見上げよ、と言っている。この詩人もきっと現実の社会の矛盾や不条理を知らないわけではないだろう。あるいは誰よりもそんな不正がゆるせなくて、心騒がせていらいらしていたのかもしれない。悪事を謀る者のことでいら立ち、不正を行う者をうらやんでいたんじゃないかと思う。いつも社会の不正に対して苦々しい思いを持っていて、いつもイライラしていたのかもしれない、なんて勝手に想像している。
でもこの詩人はいつしか、神にゆだねればいいんだと気付いたんじゃないかと思う。
ローマの信徒への手紙12:17-19にもこう書いている。「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。・・・あなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐は私のすること、私が報復すると主は言われる』と書いてあります」。
不正に対して自分が全責任を負って正さないといけない、となると大変なことだろう。いつもピリピリしていないといけないことになる。でも復讐は神がするのだから神にまかせておけばよい、と思えるならば、自分が全責任を負う必要もないわけだ。もちろん不正に対して知らん顔をするということではなく、正しくないことは正しくないと言っていけばいいんだとおもうけれども、それによって何が何でも正しく直さないといけないと思うか、それとも後は神にまかせておけばいいと思うのか、随分違うだろうなと思う。
何が何でも悪を正そうと思うと、なかなかそうならない現実を前にしていら立ってしまって、いつしか自分の方が同じような悪に染まってしまうことにもなりかねない。
私たちはたいがい自分が正しい側にいて不正をただそうと思っているけれど、どれほど自分が正しいかどうかも結構不確かなものでもある。自分では正しいことをしたつもりでも結局は周りに迷惑をかけただけなんてこともよくある。どんな戦争も当事者にとってはどちらも正義の戦いなのだそうだ。相手の不正をただす、ということで戦争をするようだ。でもそれは自分の正しさの押売でしかないような気がする。
結局は神に従うことが大事なのだ、とこの詩を書いた詩人は気付いたんじゃないかと思う。後のことは全部神が責任を取ってくれるのだから、私たちはその神に従っていけばいいのだ、と気付いたんじゃないかと思う。
もうひとつ面白い話し。
「ちょっとスチュワーデスさん!席を変えてちょうだい」
ヨハネスブルグ発の混んだ飛行機の中で、白人中年女性の乗客が叫んだ。
「何かありましたか?」
「あなたわからないの?黒人なんかの隣には座りたくないのよ!こんな人迷惑だわ」
女性の隣では、黒人男性が憮然とした顔で座っている。
「お客様、少々お待ち下さいませ。空いている席を確認してきます」
乗務員は足早に立ち去り、周囲の乗客はざわざわと不穏な空気。
しばらくして乗務員が戻って来た。
「お待たせしました。ファーストクラスにひとつ空きがありますので、どうぞそちらへ。本来ならこういうことはできないんですが、隣の席がこんな人では確かに迷惑でしょうと、機長が特別に許可しました。さ、どうぞ」
周囲の乗客は、にこやかに黒人男性を見送った。
神さまってこの話しのように、案外不正を力ずくで排除するのではなくて、もっと違うスマートな方法で正そうとしている、というか正しくないことを正しくないことだと気づかせようとしているのかもしれないなんて思ったりもする。
何はともあれ、そんな不正を行う者、主に逆らう者にとらわれるのではなく、心を奪われるのではなく、主に従うようにとこの詩人は勧めている。神が守ってくれるのだから、神が必ず守ってくれるのだから、とこの詩人は繰り返し語っている。それはこの詩人の体験でもあるのだろうと思う。