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礼拝メッセージより
「死の陰の谷を行く時も」 2010年8月1日
聖書:詩編 23編1-6節
死の陰
この詩編はよく葬儀の時に読まれるらしい。他人事のように言うけれど自分でも葬儀でよく使う。というか普段はあまり読まなかったりする。
羊飼い
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない、とこの詩編の作者は語る。日本では羊を見ることもあまりないし、羊飼いなんて尚更見ることはない。羊は羊飼いに世話をされてどうにか生きていられる動物なんだそうだ。ひどく近眼で、移動する時も前の羊の尻尾を追っかけてやっとついていく位なのだと書いているものもあった。なので迷子になりやすいらしい。
パレスチナの地方は、川や湖の近くは緑があるけれども、基本的に荒れ野が多いそうで、特に乾期になると、羊飼いは羊をつれて草のあるところを探して移動するそうで、鞭や杖を使って、羊たちを誘導していったり他の獣たちを追い払ったりするそうだ。
欠けることがない
この詩編の作者は、神はそんな羊飼い、原文にはここは「私の羊飼い」となっているそうだけれど、主である神は私の羊飼いである、そして私には何も欠けることがない、という。
欠けることがないと言えるというのはどういうことなんだろうか。自分の願うものが何もかも手に入るということではないだろうと思う。人間の長いなんてほとんど無尽蔵に近いとおもうけれど、そして願ったとおりに、祈ったとおりに神がなんでも与えてくれたらいいのにと思うけれども、そういう意味での欠けることがない、というのとは違うだろうと思う。
そうではなく、自分に必要なものに欠けがない、自分に必要なものは欠けがなく全部与えられている、そういう意味での欠けることがない、ということなんじゃないかと思う。
欲しいものはいっぱいある。あれもこれも手に入ったらどんなに嬉しいだろうなと思う。大きな車に大きな家に大きなテレビに、美人の妻に、素直な子どもを持ちたいと願ったりする。それにすぐれた知能と健康な身体と、みんなからの賞賛も欲しい。どんだけ欲張りなんだと思うけど、欲しいものって限りなくある。
でも必要なものってそんなにいっぱいあるわけではない。本当に必要なものってなると、案外少ない。詩編の作者は、私には何も欠けることがない、と言っているけれど、それは自分に必要なものは欠けることがない、ということなんじゃないかという気がする。何歳でこの詩を作ったのかわからないけれど、それまで生きてきた中で、自分の人生を振り返ってきた中で、自分に本当に必要なものはみんな与えられてきた、欠けたことは何もなかったということなんだろう。そう思えるってすごいなと思う。
僕はあれもこれも足りないと思うことが多い欲張りで、いつも自分が持っていないもののことばかり考えている。大きな家や車なんてこともそうだし、もっと髪の毛があったらとか、もっとハンサムだったらとか、昔のことで、あの時もっと勇気があったら、もっと自信があったら、もっと違った人生になっていたんじゃないか、なんてことを思うこともある。でもそんなないもののことばかり考えていても結局はむなしくなるばかりだ。だから自分には欠けることがない、なんて言える人はすごいなと思う。
でもよくよく考えると、案外必要なものは実はもう与えられているのかもしれないと思う。というか、今与えられているものこそが必要なものなのかもしれない。今持っているもの、持ち物もそうだし、今の境遇、家族も、友だちも、そして自分自身の能力も性格も、みんな必要なものを与えられている、与えられているなんて言い方はおこがましいけれど、自分にとってふさわしいものを備えられているというか、ふさわしいところに生かされているということなのかもしれないなと思う。
そう思うとなんだか不思議と安心するというか嬉しくなるというか、ちょっと元気が出てくるような感じがする。
共にいる
欠けがないと思えたとしても、苦労がないわけではない。この詩編の作者にもいろんな大変なことがあったようだ。死の陰の谷を行く時も、とあった。本当はここは死の陰の谷ではなくて、暗黒の谷、暗闇の谷、という言葉だそうで、本来は死という意味合いはないそうだけれど、兎に角そんな暗黒の時がこの作者にもあったわけだ。それはきっと誰の人生にも言えることなんだろうと思う。暗黒の時を過ごさないといけない時がある。でもそんな時にも神がともにいてくれるというのだ。
神が共にいるってのは聖書を貫くテーマのような気がする。旧約聖書の創世記では神がアブラハムやヤコブを祝福する時に、あなたと共にいると約束している。出エジプト記では、モーセがユダヤ人たちを率いてエジプトを脱出させるのだと神に命じられた時、モーセがわたしは何ものなのでしょう、どうして私がそんなことをしないといけないのかと言った。その時の神の返事が、わたしは必ずあなたと共にいる、このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである、なんて答えている。
新約聖書でも、マタイによる福音書によると、イエスが誕生する際に、その名はインマヌエルと呼ばれる、この名は、神は我々と共におられる、という意味である、と書かれているし、復活のイエスの最後の言葉は、私は世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる、という約束だった。
人生には確かに色んな苦労があって、暗黒の谷を行くようなこともある。でもどんな時でも神は共にいてくれた、それがこの詩編の作者の告白なのだろう。
敵の前で
そして神は敵の前で宴を設け、頭に香油をそそぎ、杯をあふれさせるような方なのだ。口語訳ではそんな訳だった。
これについてこんな物語を書いていた人がいた。
「ある人が西アジアの砂漠を旅していた。強盗が目をつけ、追跡をはじめた。砂漠の旅人は周囲に気を配りながら旅するので、自分が追いかけられていることに気付いた。必死で逃げる旅人。ずんずん距離を縮めてくる強盗。このままではためだ、やられてしまうと思ったとき、その先に幾つもテントが張ってあるのを見た。砂漠の一族の野営地である。珍入者をどう扱うか不安であったが、他には生き延びる術を持たぬ旅人は、意を決してテント村に入っていった。砂漠の民は出てきて、旅人を捕らえ、一族の主人のもとへ連れて行く。しかし、予想に反して主人は旅人を受け入れ、すぐそこまで迫ってきている強盗に対処するある提案をした。それが「敵前の宴」である。
主人のテントの前には大きなじゅうたんが広げられ、様々な食べ物が並べられる。一族の主だった者たちが座った席の中央、主人の隣りに旅人は案内されて座る。旅人が出てきたところを再び追跡、襲おうとしているのか、強盗は遠巻きに様子をうかがっている。その強盗に見せつけるように宴は続く。このように砂漠の一族の長が宴を開いたとなれば、強盗は手出しできない。旅人を襲うことは、この主人の客人を襲うこととなり、強盗は主人の敵と見なされる。「もし、この客人に手出ししたならば、私がだまっちゃいない。一族の名誉にかけて。」という訳である。あるいは、強盗は自分が特定されてしまったのではないかと恐れて、襲撃を思いとどまる。強盗の身が特定されてしまっては、復讐はどこまでも追いかけてくるだろう。(いったん客として受け入れた者については、どこまでも庇護するという慣習を「客人法」と言います。)」
神はそんな風に私たちを客としてくれている、自分の味方としてくれている、そして敵には手出しをさせないように守ってくれているというのだ。
それはまさに羊飼いが自分の羊を守っているのと同じことのようだ。
自分の羊として何とかして守る、なんとしてでも守る、神はそんな風にして私たちと共にいてくれている。