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礼拝メッセージより
「なぜ」 2010年7月25日
聖書:詩編 22編2-6節
わが神、わが神
マルコによる福音書15章34節にイエスが十字架につけられた時のことが書かれている。「三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」
ここが丁度詩編22編の最初の言葉になるわけだ。イエスは十字架の上でこの詩編を語ったのだという説がある。なぜわたしを見捨てたのか、というのは絶望の言葉のようだけれども、詩編22編の最後の方は神を讃美しているので、本当は絶望の言葉ではなくて神に信頼している言葉なのだ、という説だ。確かに当時も詩の最初の部分を語ることで詩の全体を暗示するというようなことはあったそうだ。詩編22編を全部語る代わりに冒頭の「わが神、わが神、なぜわたしを」というところだけを語る、ということはあったそうだ。
そう解釈すると十字架のイエスの「わが神、わが神、なぜわたしを」というのは実は神を信頼し、神を讃美するということだったということになる。
でも本当にそうなんだろうか。十字架上で苦しんでいる時に、悠長に詩編を語れるのだろうか。福音書では、わが神わが神、と大声で叫んだと書いてある。詩編を語るのなら淡々と語るのではないかと思う。だからこの「わが神、わが神、なぜ私を」という叫びは、まさにそのことば通りに、どうしてなんだ、なぜなんだ、という嘆きの絶望の叫びだったのではないかという気がする。
22編
そもそも詩編22編は本当に神に讃美する詩なんだろうか。
2-3節は、なぜ神は見捨てたのか、どうして答えてくれないのか、と嘆きの言葉がある。そして4-6節では先祖たちはあなたにより頼んで救われてきた、と語る。けれど7節以下では、でも私は虫けらでとても人とは言えない、人間の屑、民の恥なのだ、と語る。周りの者たちからは、主に、神に救って貰えばいいじゃないか、と馬鹿にされている。私はこんなに苦しい目に遭っています。私を創ったのは主よ、あなたなんだから、どうか離れないで助けてください、救って下さい、とひたすら訴えている。
ところが23節以下になると語調がころりと変わっる。主よあなたを讃美します、あなたは貧しい人の苦しみを侮らず、さげすまず、御顔を隠すことなく、助けを呼び求める叫びを聞いてくれます、と語る。なんだか23節からは全く別物のような気がする。なんだかとってつけたような気もする。
少なくとも、前半の「どうしてわたしを見捨てるのか」という嘆きから一足飛びに後半の神への讃美へと変化したわけではないだろうと思う。苦しんで嘆いて絶望して、それでも神に叫ぶしかない、そんな状態を味わい尽くして、その後助けられた、救われたという感謝の言葉、讃美の言葉となったんではないかな。でもそしたら、こんな大変なことがあったけれども、神は助けてくれた、こんな苦しいことがあったけれども救ってくれた、という言い方になるんじゃないかと思う。でもこの22編はそんな言い方じゃなくて、前半はまったく嘆きで、後半は全く讃美で、やっぱり別物をつなげたような気がするなあ。
叫び
聖書教育では今日のところを「叫ぶ祈り」という題をつけている。22編の前半はまったくその通り叫びだと思う。
本当に苦しい時、私たちは叫ぶのだろう。案外それこそが祈りなのかもしれないと思う。そしてそこでは、なぜなんだ、どうしてなんだ、という言葉になる。どうしてこんなことになっているんだ、なぜこんな苦しい目に遭うのか、というのが真っ先に出てくる言葉なんじゃないかと思う。
イエスも十字架上で、自分の気持ちを神にぶつけているんじゃないかと思うのだ。「わが神、わが神、どうして私を見捨てたのですか」というのは、今は苦しいけれど神が助けてくれるに違いないから待ってますよ、というようなそんな平べったい言葉じゃないだろうと思う。こんな苦しいのは神に見捨てられたからに違いない、なぜですか、どうしてなんですか、というとても重い言葉だったんだろうと思う。
詩編の作者も同じように、猛烈に嘆いているんだろうと思う。先祖は確かに助けられてきた。先祖は助けられたけれど、虫けらのような自分は助けられるかどうかわからない。こんなに苦しいのに神は何もしてくれない、何も語ってくれない、もう見捨てられたのだ、でも助けを求めることができるのは神しかいない、でも見捨てられている、どうしてですか、なぜ見捨てるんですか、そんな葛藤に苦しんでいるようだ。
しかしその思いをぶつける相手がいるということはとてもありがたいことだと思う。そんな思いをどこにもぶつけられないで、自分だけでずっと抱えていないといけないとしたら大変なことだ。
神は私たちの思い、嘆きや叫びをぶつける相手でもあるんだろう。どうして助けてくれないのか、なぜ見捨てるのかと神に訴えかける、それは決して不信仰な言葉じゃなくて、自分の全てをぶつけるとても信仰深い言葉だと思う。
詩編の作者もそんな自分の嘆き、自分の心の一番深いところにある思いを神にぶつけてきたんだろうと思う。イエスもそうしてきた。そして私たちもそうしていいんだろうと思うのだ。そうすべきなんじゃないかという気もする。
苦しいことばかりが多い人生だ。何故なんだ、どうしてなんだと思うようなことばかりが多い人生だ。ならばその正直な思いを神にぶつけていけばいいんだろうと思う。
教会では、神さまは何でもご存じですから、ということをよく聞く。確かにその通りだろう。だから私たちは神に何でも語っていいんだろうと思う。私たちの心の奥底にある、誰にも言えない、誰にも見せられない思いも、どろどろした思いも、嘆きも愚痴も、全部神にぶつけていけばいいんだろうと思う。
それを受け止めてもらうことが大事なんじゃないかと思う。神は何も答えてくれないかもしれないけれど、答えを貰うことよりも受け止めてもらうことが必要なんじゃないかと思う。
神はきっと私たちの全部を受け止めてくれるだろう。