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礼拝メッセージより
「見えない神」 2010年7月18日
聖書:詩編 8編1-10節
創造
先週はいろんなところで大雨が降って洪水も起こって大変な被害が出ている。排水が間に合わないでいろんなところに大きな水溜まりができていた。交差点が水につかって大渋滞にも遭った。
子供のころから思っているんだけど、あれほどの大量の雨が、雨というか水がどうして空に浮いているんだろうかと、浮いていられるんだろうかと思っていた。水蒸気となって空中で氷や水になって、と理屈としてはなんとなくわかる気はするけど、大雨が降るたびに、これだけのものがよく浮いているよなあと思う。
昔々、聖書が書かれた時代、ユダヤの人たちは、天地が創造される以前は深淵、つまり原始の大きな海があり、その水を神が上の水と下の水に分けたことで、その間に空が出来たと考えていたそうだ。そして下の水を一カ所に集めたことで海となり、それで乾いたところができて地上となったと考えていた。大空にはドームのような屋根があって、その上にも水があって、その窓から雨が降ると考えていたそうだ。そこで創世記1章6節では「神は言われた。水の中に大空あれ。水と水をわけよ。」というようなことが書かれているのだろう。
今日の詩編8編では、4節に「あなたの天を、あなたの指の業を わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。」と書かれている。創世記には神が天と地を造ったと書かれている。そしてここでは月も星も神が配置したと書かれている。
詩編19編
19:2 天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。
19:3 昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。
19:4 話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても
19:5 その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。
なんかかっこいいなあと思っていた。なんだかとても雄大で荘厳で。自然の中には神秘的なものが満ちていて、神の息吹みたいなものがあるのだ、とそう思うとなんかすごいなと思っていた。
僕は小学校の頃から天体に興味があって、そんな本も少し読んだ。宇宙はえらく大きくて何万光年や何億光年の彼方にも星があって、例えば何万光年先にある星を見ている時は、何万年も前にその星を出た光を今見ている、つまり今見ている星の姿は今の姿じゃなくて、何万年も前の星の姿なんだ、なんてことが書いてあってすごいなあと感心していた。
ところで関係ないけれど、光年って何の単位か知ってる? よく時間の単位に間違えられるけれど、これは距離の単位。1光年は光が1年間に進む距離。光は1秒に30万q位進む。1秒で地球を7回半周る。月までも1秒余りで行く。その光が1年間に進む距離が1光年。1光年は9.46×10の12乗キロメートル(9.46ペタメートル)、9 460 730 472 580 800 m。だから何万光年なんてどのくらいなのか実際はほとんど把握できない。何億光年なんて、昔、♪何億光年♪なんて歌があったけれど、ほとんど想像もできない感じ。やたらでかいのはわかるけれど、どれくらい大きいのか全くわからない。
ある時、小学生だか中学生だか忘れたけれど、夜中に目が覚めて、宇宙ってでかいんだなんて考えていたら、なんだか急に恐くなってしまったことがあった。宇宙があまりに大きすぎて恐いって感じ。暗い宇宙の中にひとりぽつんと浮いているような気になってきて、そうするとすごく寂しくて恐いと思ったことがあった。果てしのないところで、行く当てもない、逃げるところもない、ただ浮かんでいるだけのような感じがしてすごく怖かった。怖くてしばらく膝を抱えていた。
それでも相変わらず宇宙に関するテレビなんかは今でも好きで、そういうのがあると大概ビデオにとって見ている。
でも、そんな宇宙に関する本やテレビを見ても、そこに神は登場しない。創世記では初っぱなから、天地は神が創ったと語っている。今日の詩編でも全部神が創って、神の御名は全知に満ちていると言っている。
でも実際は自然を見ても、神の姿が見えるわけではない。宇宙をいくら調べても神の姿を直接見ることはできない。何億光年という遠くの星を見ることができる望遠鏡もあるが、また最近は地上だけではなく宇宙にも望遠鏡を持っていっているが、どんなにすごい望遠鏡を使ってもそれで神の姿を見ることはできない。神は見えない。自然の中に神の姿をみることは出来ない。
神はいるか
ならば神はいないのだろうか。もし神がいなければ、この宇宙の中で神がいなければ、独りぼっちで暗い宇宙にぽかんと浮かんでいるようなものじゃないかと思う。
人間は神を求める生き物ではないかと思う。地球上のあらゆる民族が祈っているんじゃないかと思う。日本は無宗教という人が多いと聞くけれど、その割には多くの店の中にはお札がおいてあったり、神棚があったり、大きな会社では屋上に社があったりする。車でもお守りをかけてたり貼ってあったりすることが多い。あるいは何もしてないと安心できないという怖れなのかもしれないけれど、人間ってどこか祈らないではいられない生き物じゃないかと思う。そうしないと宇宙で独りぼっちになってしまいそうな怖れをもともと持っているんじゃないか。誰かにくっついていないと、捕まっていないと、あるいはつかんでもらっていないと安心できない、そんなものを持っているじゃないかと思う。
聖書を書いた人は、天地を作った神が自分をつかんでくれている、だから安心できるのだ、と言っているんじゃないかと思う。
この詩編を書いた人は、目では見えない神見いだしたと言っているのだろう。
神との関係を持つこと、神を信じることの喜びをこの人は伝えたいという思いでいるのだろう。
見えないもの
創世記の創造物語も同じようなことを言おうとしているのだと思う。天地創造が創世記の字面通りに行われた、科学的にも聖書に書いているとおりなんだ、ということを言いたいのではなくて、そんなことよりも人間は神との関係の中で造られ、神との関係の中で生きていくものなのだということを言おうとしているのだと思う。そして人間が満ち足りて生きていくために、神は見えないところでちゃんと備えていてくれているということをこの詩編は告げている。
科学によっていろんなことが解明されてきた。水がどんな動きをしているのかも分かってきている。宇宙の始めも地球のできかたもだんだんと解明されてきている。科学はそんな見えるところの現象をどんどん解明してきた。
でも神は見えないところにいる。私たちは見えない神の手の中に生きている。そして神は見えない私たちの心の中にもいてくれる。そんな見えないところを見るのが信仰の目だ。
大切なものは見えない、と星の王子さまが言ったそうだけれど、その通りだと思う。命そのものも見えない。心臓が動いていないというようなことで命がないという判断をするのだろうけれども、命そのものが見えるわけではない。命があるのとないのとどう違うのか、私にはよくわからないところがある。私たちは今自分の命があると思っているが、この命がなくなる瞬間何が変わるのだろうか。顔も手も足もそのままある。心臓も肺も内臓も全部そこにある。それが止まったとき命はどうなるのか、どこに行くのか、消えるのか。よく分からない。
そんな見えないものがいっぱいある。喜びも楽しみも愛も、悲しみも憎しみも見えないものだ。見えないものによって私たちは生きている。確かに科学は見えるものをいろいろと解明してくれている。しかし私たちは見えるものだけで生きているのではない。大事なものは結構見えない。食べ物は見える、けれども命も愛も見えない。
そして神も見えない。しかし聖書は、神は見えないところで私たちと関わってくれている、見えないところで私たち人間が生きていけるように準備してくれている、見えないところで私たちひとりひとりを支えてくれている、愛してくれている、と言うのだ。8:5にあるように、天地を創ったその神が、私たちをみ心に留めてくれている、気遣ってくれている、顧みてくれているというのだ。私たちが神を信じる、というよりも、神の方が私たちの方を見てくれている、と言うのだ。
人間ってのはそんな関係、自分のことを気遣ってくれる、愛してくれる、そんな相手との関係が必要な生き物だと思う。そしてこの聖書の神はまさにそんな相手なのだと言っている。
私たちは宇宙で独りぼっちで浮かんでいるのではない。この神が私たちをしっかりとつかんでくれているのだ。だからこの神に聞いて生きていくのだ。