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礼拝メッセージより
「神よ、お救いください」 2010年7月11日
聖書:詩編 3編1-9節
ダビデとアブサロム
1節に、ダビデがその子アブサロムを逃れたとき、と書かれている。この詩が本当にダビデの詩で、アブサロムを逃れた時のものかどうかはどうも疑わしいそうだ。けれども、この詩に詠まれている心境は、その時のダビデの心境にピッタリだと思われて、これがダビデの詩というようになった、と考えられているらしい。
イスラエルの王であったダビデが、なぜその子のアブサロムから逃れないといけないのかったのかというところは、サムエル記下に書かれている。
それを見るとダビデには、順にアムノン、キルアブ、アブサロム、アドニヤ、シェファトヤ、イトレアム、シャムア、ショバブ、ナタン、ソロモン等、その後7人位の子供がいた。アブサロムは上から3番目の子になる。3章2節以下には、ヘブロンで生まれた上から6人目までの子供の名前とその母の名前が載っている。この6人の母は全部違う人だ。
アブサロムにはタマルという美しい妹がいた。そのタマルを長兄のアムノンが愛していた。そして仮病を使って看病に来てもらうことにして力ずくで辱めた。アムノンにとっては母の違う妹ということになるようだが、そのことはあまり問題にはなっていない。それよりも、辱めたあとに突然アムノンは彼女を憎しみ、追い出してしまったことが問題だったようだ。本来はそんなことをした時には結婚しなければいけないはずであったらしい。しかしそれを拒否され、タマルは誰とも結婚できないことになったようだ。タマルは母も同じである兄のアブサロムの家に身を置くことになった。アブサロムはこの時は事を起こすことはなかった。父であるダビデは事の次第を聞いて激しく怒ったと書いてあるけれど、ことらさ何もしていないようだ。
2年後、羊の毛を刈る集まりの時に、アブサロムはダビデと王子たちを招いた。ダビデは断ったが、その代わりとして長兄のアムノンを来させてくれと頼んだ。そしてアムノンが酒に酔った時に、家来に殺させた。
アブサロムは母方の家があるゲシェルというところへ逃げて、3年間そこにいた。その後ダビデの心はアブサロムに向かい、その気持ちを知った部下の計らいでエルサレムへ連れ戻すことになった。しかしダビデはエルサレムに連れ戻したアブサロムに自宅謹慎を命じた。アブサロムは何とか宮廷に戻るように画策するが、2年たってやっと戻れることになった。
宮廷に戻ったアブサロムはダビデ王ではなく自分に人気が出て信頼されるようにと手を打ち始めた。そして自分に人気が出た頃を見計らってダビデに反逆した。身の危険を感じたダビデはエルサレムを逃れた。そしてそんな時の心境が今日の詩編3編であると言われている。
彼に救いなどあるものか
多くの者が「彼に救いなどあるものか」と言っていると語る。
ダビデは長兄であるアムノンが妹のタマルを辱めるという事件が起こる以前に、自分自身が部下の妻を奪ったことがあった。王宮の屋上から水浴びをしているウリヤの妻バト・シェバに一目惚れして、王宮に招き入れ床を共にして妊娠させてしまう。その時ウリヤは戦争に行っていたが、彼をエルサレムに呼び戻してバト・シェバのところへ帰そうとする。そうやってウリヤの子供を身ごもったことにしてしまえばいいというわけだ。ところがウリヤはみんなが戦争しているのに自分だけ妻のところへ帰るわけにはいかない、と言って自分の家に帰らない。そうすると今度はウリヤを最前線に行かせて戦死させよと命令し、その通りになり、ベト・シェバを妻とした。
そのことをダビデは、ナタンを通して主から咎められる。その中で、「なぜ、主の言葉を侮り、わたしのイエスに背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。主はこう言われる。身よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。あなたの目の前で妻たちを取り上げ、あなたの隣人に与える。彼はこの太陽の下で、あなたの妻たちと床を共にするであろう。」(サムエル記下12:9-11)と書かれている。
聖書教育にも、アブサロムに追われる理由はこれだと書いてあったが、最初はこれとアブサロムとどうして関係があるのかと思っていたけれど、案外これが原因かもしれないと思うようになった。
自分の欲しいものを自分の権力を利用して手に入れる、周りの者のことなど考慮しないで自分の思い通りにする、それがこの事件であり、それを長男であるアムノンは真似したというか引き継いだということなんだろうと思う。
そこから憎悪が生まれて骨肉の争いが起こっていったと言えるような気がする。結局はダビデが蒔いた種である。自分が原因で子供に反逆されているわけだ。彼に救いなどあるものか、と言われても仕方ない有り様だ。
お前が悪かったからだ、自業自得だ、何をいまさら助けを求めるのか、何で救いを祈るのか、全く勝手な奴だ、と言われても仕方ない状況だ。
周りから言われるという心配よりも、自分自身がそんなこと言っていいのか、自分が悪いのに、自分が原因なのに、そこから救ってくださいなんて祈って良いのかと思ってしまう。あまりにも自分勝手なんじゃないのかと思ってしまう。
でも、本当に大変な時、祈るしかないのも現実だ。自分が悪いからこそ大変なんだろう。自分に原因があるからこそ余計に苦しいのだろう。
車をぶつけられたのは地震のあった年だからもう8年位前になるけれど、こっちは道路脇に停車していたので向こう側に100%原因があるということになった。こっちは胸や腰を打ったり頭を少し切ったりして、体は痛みがあったけれど、精神的には苦しくはなかった。相手の方は何回か菓子折を持って謝りにきてくれた。恐縮している姿を見ていると、向こうの方がよっぽど辛いんだろうなと思った。もし自分が逆の立場になったら苦しいだろうなと思った。もし自分が原因で相手を死なせたりしたらどんなに苦しいだろうかと思う。
自分が悪いんだと、自分の所為なのだとつきつけられることって本当に苦しい。助けてください、救ってください、なんて大きな声で言えないような気がする。天を見上げて、神よ、なんて大っぴらに祈れないような気がする。逆に頭を抱え込んで、自分が悪かった、自分の所為だと思って、自分の気持ちが心の奥にどんどん落ち込んで行きそうな気がする。
そう思うとこんな詩編のようなきれいな言葉じゃ祈れないだろうなと思う。
でも自分を責めて落ち込んでいく、心の一番奥に、そこは真っ暗闇のようなところかもしれないけれど、その一番深い奥底に、神はいてくれるのではないかと思う。
神は我らと共にいる、と言われている。私たちが落ち込む一番深いところにも、神は共にいてくれているのだろう。だから私たちはそこでも祈るのだ。