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礼拝メッセージより
「幸いなこと」 2010年7月4日
聖書:詩編 1編1-6節
後悔
先週、今年牧師となった人と話しをしていて、その人は日曜日の夜から次の週の説教の準備を始める、そして一週間説教のことを頭のどこかで考えている、というようなことを言っていました。
そういえば牧師になりたてのころは何日も前から、それこそたまには日曜日から次の週の説教の箇所を読んだりしたこともありましたが、最近はそんなことはなくなってしまいました。毎週毎週、気が付けば週末になっていて、間際になっても準備ができずに、もっと早く取りかかっていればと後悔するばかり、それも毎週毎週後悔するばかりです。なのに礼拝が終わったらホッとして、しばし休憩ってことになってしまっています。
たまには早くやらなきゃと思ってとりかかろうとする時もありますが、そんな時はまだ時間があるからと思って集中できなくてすぐやめてしまいます。結局間際にならないとできない状態が続いて困ったもんだと思っています。
毎週の説教でも早く準備しておけばと後悔することが多いですが、人生にもいろいろと後悔することがあります。あの時ああしておけば良かった、こうしておけば良かった、そうしたらこうはならなかったんじゃないか、そうしたら幸せになっていたんじゃないか、そう思うことが誰にでもあるんじゃないかと思います。
今日は詩編の1編を読みましたが、その一番最初の言葉は、「いかに幸いなことか」でした。自分は幸せだと思える人はそれこそ幸いだと思うのですが、実際は自分が幸いだと思えないことが多いような気がします。あの時こうだったから、ああだったから幸せになれていないのだという後悔する思いがいっぱいあるんじゃないかと思います。あの時もっと頑張っていたら、あの時あれを続けていたら、今頃は違う幸せな自分になっていたんじゃないかなんて思わないでしょうか。
つまり昔のことが原因で今が幸せではない、幸せになれていない、という思いになることが多いんじゃないでしょうか。そして昔のことは今更変えようもないわけで、なので自分は幸せではないし、幸せにもなれないという思いになってしまっているような気がします。
今
今日のこの詩編1編は、幸いなこととして、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人、だと言っています。
これはみんな今のことを言っていると思います。今からできることを言っていると思います。今からすぐにできることなんじゃないかと思います。
財産をいっぱい持って、友だちをいっぱい持つことが幸せだなんて言われても、そんなことすぐにできるわけではないというか、一生かかってもできそうにないですが、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむことなら、今からしようと思えばすぐにできることだと思います。
神に逆らう者の計らいに従わない、罪ある者の道にとどまらない、傲慢な者と共に座らず、ということも、もうやめると決めればすぐにできることだと思うます。やめると思えるかどうかが難しいのかもしれませんが、とにかくその気になればすぐにできることなんじゃないかと思います。
方法
幸いな人は、流れのほとりに植えられた木のようであり、神に逆らう人は、要するに幸いでない人はってことでしょうが、風に吹き飛ばされるもみ殻のようだと言います。
こういうのを聞くと、どうせ自分はもみ殻だってすぐに思ってしまっていました。主の教えを愛し、昼も夜も口ずさむ、なんて全然できてない、どうせ自分はそんなことできない駄目な人間なんだというふうに思ってしまいます。そう考える癖があるみたいです。
でもここはそんなことを言っているわけではないようです。お前は幸いなのか、幸いじゃないのかと問いつめているわけではないような気がします。
そうではなく、幸いであるためにはこうすればいいんだ、という方法、幸いになる方法を伝えているじゃないかという風な気がしています。幸いでない者を責めているのではなくて、幸いになりなさいと勧めている、招いている言葉なんじゃないかと思います。そのためにはこうしなさい、という方法を教えてくれているんだろうと思います。
飲んでみる
でも心のどこかで本当かいなと思ってしまいます。本当にそんなことが幸いなことなのか、そんなことで幸せになれるのかと、やりもしないで実行することもしないで疑ってかかっています。
飲まないワインでは酔えない、だったかな、そんな言葉を読んだことがあります。ワインについて、産地はどこで何年に作られてなんて蘊蓄をどれほど聞いても、そのワインを飲まないことには酔うことはできません。どんなおいしい料理でも、材料とか作り方とか栄養がどうとか、どれほど説明を聞いても、そしてどれほどおいしいかをいくら聞かされても、それをテレビで見ているだけではそのおいしさは分かりません。
主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむことが幸いだと聞いても、本当にその通りだろうなと思っても、実際にそれを実行してみないと幸いにはなれないのでしょう。
口ずさむという言葉は、想うというふうにも訳される言葉みたいなので、四六時中ぶつぶつ言っているということではないようですが、主の教えを、つまり聖書の教えを常に想っていること、それが幸いなのだから、だからそうしたらいいですよ、と教えてくれているというなんだろうと想います。
こういうのを読むと、これを書いたのは誰なんだろうと思います。これを書いた人はどういう人でどんなことを経験した人なんだろうかと思います。誰が書いたのかもよくわかりませんが、兎に角これを書いた人は、自分の人生の経験からこういうことを言っているのだろうと思います。幸いとは何なのかということを考えて、探して、そして見つけた答えがきっとこれだったんだろうと思います。
神の教えを聞きなさい、幸いはここにしかないのだ、と言って教会に人を集めるために言っている言葉ではないだろうと思います。
きっといろんなことに悩み、苦労して、そしてたどり着いた答えがこの詩編1編だったんじゃないかと思います。
みんなに幸いになって欲しい、幸いになる方法を知って欲しい、そういう思いの詰まった言葉なんじゃないかと思います。
青い鳥みたいに、幸いなことは意外と身近にあった、すでに私たちの手許にあったということかもしれません。もうちょっと聖書を読んでみようかな。