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礼拝メッセージより
「そばにいるよ」 2010年6月27日
聖書:マタイによる福音書 26章36-46節
花の命は
林芙美子の「花の命は短くて、苦しき事のみ多かりき」と言葉がある。最後の「き」がどういう意味なのか未だによく分からないけれど、これを初めて聞いたのはいつだったのかよく覚えていないけれど、何となくこの言葉が嫌いだった。人生の花は短い期間で、苦しいことばかりが多いなんてのは嫌だ、という気持ちが強くて、この言葉が嫌いだった。
インターネットを見ると、もともとは「花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かれど 風も吹くなり 雲も光るなり」だったけれど、後に林芙美子自身が色紙などに「花の命は短くて、苦しき事のみ多かりき」と書いていたそうだ。
それはともかく、最近は苦しき事のみ多かりきってのは、その通りかもしれないなあと思うようになった。どうしようもなく、それこそこちらに断りもなくやってくる逃げようのない苦しみってのがいっぱいあるなあと思うこのごろである。
苦しみ
聖書には苦しむイエスが登場する。キリストが、救い主がどうして苦しんだりするのか。キリストは人間を救うことができる。救うために来たのではなかったのか。なのに苦しむのか。
「わたしは死ぬばかりに悲しい」。そんなことを聞くほうが悲しい。キリストがそんなこと言うなよ、どんな苦難にもくじけないで、どんな苦しみにも、なにがあろうとも、ただ黙々と神を見上げていくべきじゃないのか。それこそがキリストではないのか、とさえ思う。
同じことを自分にも思う。なにがあっても平気、だって俺は神を信じているんだから、神がついているんだから、という風になりたい、なれればいい、それこそがクリスチャンだ、という気持ちがどこかにある。敬虔なクリスチャンとはそういうものだというイメージが一般社会にもあると思う。
教会の中でも、神を信じていれば大丈夫、心配するな、私も乗り越えてきた、なんて立派な話しを聞くことが多い。苦しみに直面して、悩み悲しみ苦しむことはどことなく信仰者として失格であるかのような見方をしているような気がする。
現実にはイエスはここにあるように、この杯をわたしから取りのけてください、と祈っている。この杯、つまりこの苦しみ、十字架ということになるのだろう、この苦難をわたしから取りのけてください、とイエスは祈ったのだ。神が決めたことなのだから、それに従うまでです、なんてかっこいいことばかり言っていたのではなかった。
これは僕らの祈りと大して変わらない。どうしてこんなことになるのか、こんな苦しみにあわせないでくれ、どうしてこの俺がそんなことにならねばならないのか、どうして、どうして、と言う問いを繰り返し問い続ける。それが私たちの真の姿なのではないかと思う。
でもイエスもそうだったのだ。
イエスがどうして十字架にかからねばならなかったのか、不思議な気がする。イエスが神であるのならば、そんな死刑になんかならなくてもいいではないか。神の無限の力でもって、どんなことでもできたはずではないか。自分を十字架につけようなんていう不届きものを成敗してしまえばよかったのに。神ならば、そうできたのではないか、と思う。
できなかったからしなかったのか。多分そうではないだろう。いろいろな奇跡を起こしていることを考えれば、できないはずはない。ではどうしてそうしなかったのか。
イエスは神として人間とは別世界の、高い高いところにじっとしてはいなかった、ということだろうと思う。あくまでも人間のところにいた、人間と同じ高さに立っていた、苦難を前にしても、十字架を前にしても、人間であり続けたのだ。神でありながらしつこく人間であり続けた。十字架で殺されるまで人間であり続けたのだ。苦しみ続けた。そして祈り続けたようだ。
祈り
イエスは三度も祈ったと書かれている。しかも同じ言葉で祈ったとある。ということは祈りに対する答えがなかった、ということだ。答えのないままに祈っていた。これも私たちと同じだ。3回目の祈りを終えて、やっと立ち上がることができた。答える声が聞こえない、というのがイエスにとっては答えだったのかもしれない。そのまま、というのが神の答えだろうか。いや、イエスは答えはもう分かっていたのではないか。祈る前からきっと答えは分かっていた。しかし祈ったのだ。祈らないではいられなかったのだろう。
事態を変えることを願っても、祈っても、なにも変わらないことがある。だから神は祈りを聞いてくれない、と思う。しかしそれが神の答えだと言うことなのかもしれない。イエスは、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈っている。御心が何なのかよく分かっているのだ。その御心を受け止めること、それこそがイエスの祈りなのだ。
そんな風に御心を受け止めていく、神の声を聞いていくこと、それこそが祈りなのだろう。神に対して自分の心の扉を開き神を迎え入れることだろう。また祈りというのは、どうにもならない現実をどうにか変えようとすることよりも、現実を受け止めていくこと、また自分自身を受け止めていくことなのだろう。祈りとはそういうもの、祈ることで現実や自分自身を受け止めていく力が生まれてくるのだと思う。
弱さ
苦しみ祈っているイエスの傍らで弟子たちは眠っていた。イエスの苦悩を知ってか知らずか、イエスの表情や態度から、多少なりとも緊迫感は感じてはいたであろうと思うが眠ってしまった。
しかしイエスはそんな弟子たちを見捨てることはなかった。殊更責めている様子もない。こんな弟子たちと、イエスはどこまでもいっしょに行こうとする。弱さをもった、罪をもった、そんな人間を抱え込んで、包み込んで、イエスは十字架へ向かっていく。平気な顔をして十字架に向かっていったのではなかった。苦しみもだえつつ向かっていったのだ。
祈り
そんな苦しみもだえる道をイエスは通ってきた。死ぬほどの苦しみ、死ぬほどの悲しみを通ってきた。
私たちはこのイエスに従っていく。どうしてなんだ、やめてくれ、ともだえつつ、神はなにを考えているのか、どこに神はいるのか、と問い続ける、祈り続ける、それが私たちの生き方だ。私たちがイエスに従うというよりも、イエスがそんな私たちに寄り添ってくれているのだろう。
イエスはどんなときにも人間のそばにいようとした。そのために自分にどんな苦しみが待っていてもそうした。苦しみ祈りつつ人間のそばにいるのだ。そのことを感じとっていく、そんな神に聞いていく、それが祈りだ。
あれしてくれ、これしてくれ、アーメン、アーメンとかっこいい言葉でしゃべり続けることよりも、しゃべってもいいだろうけど、それよりもじっと神に聞いていく、黙って神と共にいる、それが祈りなのだろう。
どう祈るかというような本を見ると、祈りは綺麗は言葉を流暢にしゃべらなくても、神さま憐れんでください、神さま助けてください、そんな簡単な言葉をひたすら繰り返すだけでもいいそうだ。ただ、神よ神よとか、イエスよイエスよ、言うだけでもいいそうだ。それならいつでもどこでも祈れる。そしてそうやって祈ると確かに全然違う。神の方を向いていく、神に向かって心を開く、それこそが祈りなのだろう。
「祈りは神を変えず、祈る者を変える。」(キルケゴール)
そんな祈りをしていきたい。
悲しみ
ここでふと気が付いた。イエスは「わたしは死ぬばかりに悲しい」と言っている。その前にも、悲しみもだえ始められた、と書かれている。苦しいから、この杯が過ぎ去るようにと祈っていたと思っていたけれど、そうじゃないんだろうか。悲しいからなんだろうか。何が悲しいのだろうか。
苦しみと悲しみは違うだろう。悲しみってのは誰か相手があってのことなんじゃないかと思う。誰かと別れるのが悲しいというように。
イエスは何が悲しいのだろうか。悲しいってことは、結局それは自分自身が苦しいことではなく、誰かのことを悲しんでいるのではないかと思う。やっぱり弟子たちのことを悲しんでいるような気がする。弟子たちが今後苦しいめに会うのを悲しんでいるじゃないだろうか。
私たちが苦しみ祈る時、そこにイエスがいてくれる。苦しむ私たちのことを死ぬ程に悲しむイエスがいてくれているに違いない。