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礼拝メッセージより
「生きている者の神」 2010年6月20日
聖書:マタイによる福音書 22章23-33節
サドカイ派
今日の箇所にサドカイ派の人々が登場する。サドカイ派とはエルサレム神殿を中心とする祭司的、貴族的階級の人たちだそうだ。モーセの律法(モーセ五書)具体的には旧約聖書の最初の五つの文書、創世記と出エジプト記とレビ記と民数記と申命記の五つ、これしか聖書と認めないそうだ。そしてそこには復活のことは書いていないということから復活はない、と言っていたらしい。貴族的ということもあり、かなり恵まれた地位にあったようだ。そしてそんなことからも現実主義者だったらしい。現世が大事なのだということらしい。
一方、このサドカイ派と仲の悪いファイサイ派は復活があるという立場。ユダヤ戦記という本の中には彼らのことが「霊魂はすべて不滅であるが、他のからだに移ることのできる者は善人の魂に限られており、悪人の魂は永遠の刑罰を受ける、と彼らは主張していた」と書かれているそうだ。復活は認めるが、霊魂が再び身体をとるのは善人のみであるという立場。善人、悪人というこの世の区別があの世でも通用するという風に考えていた。だからこそこの世では必死になって努力をする。善人になる努力をする、つまりそれが律法を守るということ。律法を守ることが、すなわち善人であるということだったようだ。
今日の聖書のすぐ前のところで、ファリサイ派の人たちが皇帝への税金のことでイエスを陥れようとして返り討ちにあったことが書かれている。それなら今度は俺たちが、ということでサドカイ派の人たちがやって来たのだろう。今日の質問で、復活はないと言っているサドカイ派が復活したときどうなるかという質問をする。あるいはいつもファイサイ派と議論しているようなことを、そのままイエスにふっかけたと言うことかもしれない。イエスをやりこめることでファイサイ派に対しても優位に立ちたいと思う気持ちもあったんじゃないかと思う
質問
質問の内容は、「もしある人の兄が死に、残された妻に子がない場合には、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけねばならない」とモーセが言っている、ということから始まった。
このことは申命記25:5-6に書いてある。「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いで派ならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。」というところをいっているのであろう。
こういう律法があるといった上で、もし兄弟が7人にて、長男が結婚し、子がなくて死に、次男が長男の妻と結婚し、また子がないままに死に、同じように三男、四男、・・七男間で同じようになり、結局子がないまま死に、この妻も死んだとする。そして復活してみんなよみがえったときには、この女は一体だれの妻になるのか、と質問した。
サドカイ派とすれば、復活なんてことがあるとこんなおかしなことが起こるじゃないか、だから復活はないんだと言いたいのだろう。
神の力
ここでイエスは「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」と言う。
イエスは、サドカイ派の人たちがモーセの律法を持ち出してきて議論してきたのに答えて、自分もモーセの書で答えた。
神はご自分のことを「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」といわれたではないか、と。これは神がモーセに語った言葉で、出エジプト記3:6に出てくる。アブラハムもイサクもヤコブも旧約聖書の創世記に出てくる人たちで、モーセが生きていたときにはもうとっくに死んでいたし、モーセに向かって語ったときにはもちろんとっくに死でいた人たちである。なのに、そういう人たちの神である、と神は言った。そしてイエスは、神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神であると言った。ということはアブラハムもイサクもヤコブも生きているということだ。
しかし実際アブラハムもイサクもヤコブも既に死んでいる。私たちが今持っている命はもうない。なのに、神は、私はアブラハム、イサク、ヤコブの神であった、ではなく、神である、と言われている。ということはアブラハム、イサク、ヤコブは生きているということになる。死んだはずなのに生きているとはどういうことなのか。結局そこに神の力が働いているということ、それが復活ということなのだろう。
「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われる神は、十字架で死んだイエスを三日目によみがえらせた神である。イエスを復活させた神であるのだ。復活を信じると言うことは、この神を信じることでもある。この神の力を信じると言うことでもある。
ではどんな風に復活するのか。この今の身体はどうなるのか。わからない。わからないことがいっぱいだ。わからないことだらけというか、わかっていることは何もない、と言ったほうがいいのだろう。復活を主張するファリサイ派は、今のこの体がそのまま復活する、そうじゃないと誰が誰かわからなくなる、なんてことも言っていてそうだ。ファリサイ派の主張はおかしな点が気になってくると、復活そのものがないと思えてくるだろう。だから復活なんてのはないんだ、と思ったほうが合理的のようにも思えるようにも思う。サドカイ派はそういう立場だったのかな。
新約聖書のコリントの信徒への手紙一15章35節以下には、復活のことが書いてある。
復活とは植物の種がまかれて、後に成長するようなものだと言われている。まかれた種がやがて花を咲かせるようなもののようだ。よく考えれば一粒の小さな種からきれいな花が咲くなんてことはなかなかすごいことだ。知らない種を持ってきて、この種から咲く花を想像してみてください、なんて言われても全然できない。でも復活とはそういうものだ、とコリントの信徒への手紙を書いたパウロは言っている。今の体が種だとすれば、復活のときにはどんなになるのだろうか。考えると楽しくなる。
とにかく復活と言うことはよくわからない。よくわからないがイエスが言っていることは、嫁いだりめとったりするのではない、と言うこと。つまり、今のこの世界がもう一度繰り返されるのではないと言うこと。この世界の仕組みと同じ仕組みがもう一度繰り返されるのではないと言うこと。またわかっていることは神が復活させてくださるのであって、自分の力でするのではないと言うこと、そして神にはその力があるということ。
そしてもう一つわかっていることは、私たちの神は私たちが死んだ後にも私たちの神であり続けるということ。神がモーセに向かって「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブの神だ」と言ったということはそういうことなのだろう。
死んでしまったら人と神との関係が終わるのではない。死んでも私たちと神との関係は終わらない。死んでからも神は私たちの神であるのだ。永遠に私たちの神であり続けるのだ。
そんな風に、神が私たちの神であるという関係がある限り、私たちは神によって生きている、と言うことができるのだと思う。神が私たちの神である限り、神は私たちを生かしてくださる。たとえ今のこの命が消えるときがあっても、神は私たちを生かしてくださる。永遠に私たちの神でいてくださる。それが復活ということなのではないか。だから神は生きている者の神なのだろう。だから神はいつでも生きている者の神なのだろう。