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礼拝メッセージより
「その日だけで十分」 2010年6月13日
聖書:マタイによる福音書 6章25-34節
心配
僕の人生の大半は心配で出来ているんじゃないかと思う。思えばいろんなことを心配してきた。
小学生の頃から、授業中に先生に指名されたらどうしようといつもびくびくしていた。間違うことはいけないことだと思っていた。自分は優秀な子どもじゃないといけないと思っていた。いつも優等生でいないといけないと思っていた。だから授業は緊張の連続だった。図工の時間に教室の外で絵を描く、なんて授業が一番安心できた。だから基本的に学校は嫌い、勉強は嫌いだ。
それなのに、表向きは良い格好をしてしまうので、無理が重なったせいだと思うけれど、高校になってから破綻して登校拒否をした。その結果教会に行くようになった訳だけど。
この心配症は大人になっても続いていて、未だにいろんなことを心配している。心配し過ぎだよなと思いつつ心配してしまう。何か気にかかることがあると何日も何日も前から心配ばかりしている。
まるでそば屋さんの出前のような感じ。最近はあまり見ないけど、そば屋さんがそばのざるを何段も肩にかけて自転車に乗ってるというかっこうを昔はテレビで見てたけど、明日の心配と、明後日の心配と、明明後日の心配と、その次の日の心配と、何日分もの心配を担いで歩いている感じ。一日分の心配なら大したことなくても、何日分もの心配になると毎日しんどい。
そして、その心配事を人に話せたら少しでも楽になると思うけれど、なかなか話せない。なぜなのかよく分からないけど、自分の失敗や弱点を人に話すのが苦手だ。自分の自慢を話すのはいいけれど、自分の心配事や自分の失敗したことや悩み事を話すのが下手だ。そんな弱みを見せてはいけないような気になっている。自分の駄目さを人に知られるのが怖いんだろうなと思う。
牧師になってもいい牧師じゃないといけないという思いが強くて、そうじゃない自分は駄目な牧師で、こんな牧師では駄目なんだ、こんな自分では駄目なんだという気持ちが強い。最近でこそ多少は、これでもいいというか、これでいくしかないかなと思えるようになってきたかなとは思うけれど、なかなか急に変われない。
自分で生きる?
イエスは空の鳥をよく見なさい、と言った。よく見ろと言われてもなかなかよく見れない。一時期からすやトンビがよく飛んでたけど最近は見なくなってしまった。何で空の鳥をよく見ろと言ったかというと、鳥は種を蒔かないし刈り入れもしないし、それを蓄えておくわけでもない、なのに神は養ってくれているじゃないか、というわけだ。
そうやって神が私も養ってくれるならそんなに嬉しいことはない、なんて思う。でも実際には自分の食い扶持は自分で稼がないと生きていけないと思ってる。そしてそれなりに稼いでいる時は、自分は自分の力で生きているような気になっている。
でも、例えば人間が生きていくために必要なものを何もかも自分で用意しないといけないとしたら大変なことである。
自分は自分の力で生きているような気になっているけれど、よく考えると自分が食べるものも自分で作っているわけではない。食料がどこでどう出来たのか分からない。例えば野菜だって誰かが作ったのを買うことがほとんど。自分で作ることもあるかもしれないが、自分で野菜を作ったとしても、その野菜を大きくするのは自分ではない。野菜がどのように大きくなるのかどうして大きくなるのかよく知らない。野菜が成長するために必要な水も、基本的には空から降ってこなければ困ってしまう。水ならどこかに汲みに行くこともできるけれど、光合成に必要な光なんて太陽が照らないことにはどうしようもない。光を自分で作るなんてこともできない。そう思うと自分はたまたま自分の周りに食べ物が用意されていて、たまたまそれを手に入れることができるようになっているから生きていけているだけのような気がする。
そもそも生きていくためには寝ても覚めても呼吸していないといけないけれど、必要な酸素だってもちろん自分が用意しているわけでもない。
生かされている
そんなことを考えていくと結局人間も一人だけで生きている訳ではないような気がする。私たちも空の鳥と同じように生かされているようだ。生かされているから生きていける。そしてそれは聖書が語るように人も神によって生かされているということだろう。生かされているということは、一人で自分の力だけで生きていかないといけない訳でもない。
神は知っている
鳥だって養ってくれているんだから、神は鳥よりも価値のある人間を養わないはずがないじゃないか、とイエスは言っているようだ。
私たちには自分の寿命も分からない、明日のことはわからない。明日まで生きているかどうかも本当のところ分からない。まして10年後、20年後にどうなるかまるで分からない。
いつまであるか分からない人生だけれど、全部自分の力で切り開いていかなくちゃいけない、としたら本当に心配だらけになってしまいそうで、あれもこれも悩まないといけないことになりそうだ。
悩みなさんな
神はあなたたちのことを大事に大事に思っているんだから、と。「あなたがたは鳥よりも価値あるものではないか」「ましてあなたがたにはなおさらのことではないか」と言われている。
だから悩むのは今日のことだけでいい。明日のことまで悩みなさんなとイエスは言う。
悩むことにエネルギーを費やしてしまうことで人間は疲れ切ってしまうこともある。悩みに押しつぶされてしまうことも。心配で心配で夜も眠れないことも、しかも何日も前からなんてこともある。
そんな私たちにイエスは語り掛けているのではないか、神があなたのことを心配しているのだ、あなたがどうしようと思っていることを神がどうすればいいか考えていると。私たちの心配の届かないところまで神は心配していて、そのための備えをしているのだ。
神が心配して神が準備しておられる、だから明日のことまで心配するな、と言われている。
確かに悩みは尽きない。いろんな悩みの種がいっぱいある。けれどもイエスは、今日は今日の分だけを悩めばいい、今日の分だけで十分だ、と言っている。
あなたは一人じゃないんだ、神があなたのことを心配しているんだから、あなたのことを大切に思っているんだから、だから明日の悩みは明日になってから悩めばいい。あなたはもう十分に悩んできた、でももうそんなに悩まなくてもいい、悩みはその日の分だけで十分だ、そう言っているような気がする。
悩むな、と言われたからといってそれで悩みがなくなるのか、と思ったりもするけれど。
昔友だちが好きな水越恵子という歌手がいた。今もいるけど。彼がよく「ほほにキスして」という唄を聞いていた。too far awayという曲も彼女の曲だそうだ。
何年か前に、たまたま本屋で水越恵子さんの本を見かけてぱらぱらと読んだ。ネットで調べると、彼女は結婚して子どもを産み、その子がダウン症だった。その後離婚して一人で子育てをしている、と書いてあった。
記憶が曖昧なのではっきりとは覚えていないけれど、本屋で読んだ時にも確かそんな大変な時のことが書かれていたように覚えている。そしてそんな大変な時に彼女が講演にいった時に、たまたま座ったベンチに誰かが文章を書いていた。それが聖書で、確か「だから、あすのことは思いわずらうな。あすのことはあす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」だったと思う。聖書じゃんと思った記憶がある。彼女はそれが何の言葉かも知らなかったみたいだけど、それを読んですごく楽になったと書いていた。
思い悩むな、と言われたからといっても、悩みの種がなくなるわけではない。けれど、神はそう言っている。悩んじゃいけないという命令ではなく、あなたのことが大事だから、あなたのことを私が心配しているから、だから明日のことまで悩みなさんな、悩むのは今日のことだけで十分だ、と言われているのだろう。
悩みに押しつぶされそうな、倒れてしまいそうな私のことをそれほどに分かってくれているからこそ、そんな私を丸ごと受け止めてくれているからこそ、イエスはそう言ってくれているのだろう。