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礼拝メッセージより
「種」 2010年5月30日
聖書:マタイによる福音書 13章31-33節
からし種
教会で初めてからし種の話しを聞いた時、どんな種か全然見当もつかなかった。ある時どこの教会でだったか忘れたけれど、からし種を見せてもらったことがある。小さい瓶に入れてあって、見終わるとまた瓶に戻したような記憶があって、結構貴重なものを見せてもらったような気がしていた。直径1mm位と聖書教育にも書いていたけれど、その見せてもらった時も確かにその位で本当に小さいんだと思った記憶がある。
そしてだいぶ経ってから、時々ソーセージに粒マスタードをつけて食べるようになった。しばらくしてからマスタードって辛子だよなって思って、そしたらからし種って要するに粒マスタードに入っている粒のことなんじゃないのかなと思った。大きさも同じ位だし。だったら昔見せてもらった、瓶に入れてあったからし種ってそんなに貴重品ってことでもなかったのかな。本当にからし種が粒マスタードの粒のことなのかどうかはっきりしないけれど、要するに大きさとしてはあれくらいみたい。
からしにもいろんな種類があるらしくて、1mmよりももっと小さい種もあるらしいが、成長すると3-4mにもなるそうだ。人が登ったという記録もあるそうだ。
そして天の国はそのからし種のようなものだとイエスは言った。ということは天の国とは爆発的に成長するようなもの、ということなんだろうか。
そうではなく、土に蒔いてから成長すること、下から成長していくこと、神が下から支えていくこと、神によって下から根っこから支えられていくこと、それがイエスの語る天の国ということなんではないかと思う。
パン種
今日の話しのもう一つがパン種だ。
イエスはこの話しの時になぜだか、女がこれを取って3サトンの粉に混ぜるとやがて全体が膨れる、と言っている。別に女じゃなくてもいいんじゃないかと思うし、3サトンじゃなくても2サトンでも1サトンでも、パン種を混ぜたら膨れると思うけれど、なんで3サトンなんだろうか。3サトンとは聖書教育によると、約38.4リットルだそうだ。と言われてもどれくらいかわかりにくいけれど、2リットル入りのペットボトルで20本弱ってことになる。聖書教育だとそこに必要なパン種が2kgだと書いているけど、片やリットルで片やkgで言われてもその違いがよくわからない。パン種2kgが何リットルなのか、あるいは3サトンの粉が何kgなのかがわからないと比べようがないじゃん。
パン種ってきっとイースト菌のことだと思うけれど、インターネットで調べたら、イースト菌は5-7ミクロンの大きさだそうだ。千分の5-7mm。ひとつひとつは目に見えない位小さいけれど、パンに入れる時には、ドライイーストの時だと粉の1.5-3%、生イーストの時は粉の4-6%を入れるそうだ。ドライイーストって何?生イーストって何?ってまた分からないことが出てきたけれど、兎に角、少しのものによって全体が大きく広がるってことを言っているような気がする。
天の国
イエスは天の国がそのからし種やパン種に似ていると言った。ということは天の国とは、吹けば飛ぶような小さいものってことなんだろうか。目に見えないようなものってことなんだろうか。
でもそんな小さいものだけれど、それはただ小さいだけじゃなくて大きく成長する力を持っているものだ。
からし種はまるで砂粒のように小さい。パン種はもっともっと小さい。でもこの種が砂粒と違うのは、種には命があるってことだ。命があるから大きくなる。命があるから大きくなる力がある。
天の国はそんなからし種やパン種に似ているとイエスは言う。
イエスは天の国とか神の国の話しをよくしている。でも何だかやっぱりちょっとしっくり来ないところがある。天の国って聞くと何だか死んだ後に行く場所というようなイメージがあるけれど、死んだ後なのかどうかはともかくも、国って言うんだからそれは場所のことなんじゃないかと思うけれど、イエスは種が神の国だと言うのだ。なのでよく分からなくなる。
少し後の13:44節以下にも天の国のたとえが出てくる。そこを見ると、天の国は、畑に隠された宝を見つけた人が持ち物をすっかり売り払ってその畑を買うことにたとえられている。さらに、良い真珠を探していた商人が高価な真珠を見つけて、持ち物をすっかり売り払ってそれを買うことにたとえられている。そこを見ると、持ち物をすっかり売り払って自分が求めていた大事なものを買うことが天の国ということのようだ。ここでも天の国は場所ではないようだ。
天の国って、そういう場所のことではなくて、命とか力というようなもののような気がしてきた。神から与えられる命、神から与えられる力、それこそが天の国なんじゃないか。そしてそれは見えないようなものが大きく成長する命であり、力なんだろうと思う。
イエスは、天の国は近づいた、と言って伝道を始めたけれど、それも天の国という場所が近づいたのではなく、神の命、神の力が近づいたということと考える方がしっくりくるような気がする。
天の国が近づいたということは、からし種のような、パン種のような小さな見えないような神の命が、神の力が私たちの心に届けられたということなんだろうと思う。
つまりからし種が私たちの心に蒔かれた、あるいはパン種が私たちの心に混ぜられたということなんじゃないかと思う。天の国が近づいたということは、種が蒔かれるように、天の国が私たちの心に蒔かれたということなんだろう。ということは天の国はもうすでに私たちの心の中にあると言うことなんだろう。つまり神の力、神の命が私たちの心の中にもうあるということになんだろう。
私たちはもう既に、その神の力によって支えられているのだ。