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礼拝メッセージより
「さいわい」 2010年4月18日
聖書:マタイによる福音書 5章1-12節
しあわせって?
だいぶ前に「しあわせって何だっけ、何だっけ」というコマーシャルがあって、最近またやっている。幸せってなんなんだろう。どうなることが幸せなんだろう。みんな幸せを求めているが、幸せってどういうことかってのはあんまり明白ではない。あまりはっきりしないものを一所懸命に追っかけているというのはなかなかつらいことでもある。その割りに、自分が幸せなのかどうかってことを結構気にしている。
今日の聖書の言葉は、原文では、「さいわいだ」という語が文の一番初めに来ているそうだ。幸いだ、心の貧しい人々、という順番なんだそうだ。
ここでいう貧しい人という言葉は、乞食たちを指す言葉なんだそうだ。ただ比較的貧乏であるということではなく、乞食をしているような状態の人のことだそうだ。しかしなぜそんな状態がさいわいなのか、とても理解できないことのように思う。
私達は常に、「さいわい」、「幸せ」な状態を求める。親は子の幸せを願う。結婚したカップルには、「お幸せに」と言う。「幸せ」を求めるというのは、古今東西を問わず、すべての人間の求めるものであるらしい。
しかし何がどうあることが幸せなのかは、時代によって人によって異なる。私達は果たしてどのような幸せを求めているのか。
一般的には、いい学校を出て、いい会社に就職をして、有利な結婚をして、財産を得て、健康で長生きすることが幸せだと考えているのではないか。親が子どもに対して願うこともそのようなことが多いように思う。そのためには小さい時から習い事をして、ということになるのだろう。
聖書にも世間一般で言われているような、良い物を持つことが幸せであるというような言葉もないわけではない。しかし聖書では幸せの根本は何よりも神との関係において見られている。すなわち、聖書では、神との正しい関係にあるというのが、最も幸せということだ。
詩編の中にも「さいわい」の言葉が多くある。そもそも詩編は、この「さいわい」で始まっている。
「いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず
主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。」(詩編1:1-2)
詩篇の記者はまず最初に、神の前に正しくあることが本当の幸せなのだ、と主張している。
「心」とは「霊」
「心の貧しい人たち」の「心」と訳されているこの言葉は、実は原語のギリシャ語では、「プニューマ」(霊)という言葉が使われているそうだ。「霊の貧しい人たちはさいわいである」というのが、もともとの言葉だそうだ。「霊の貧しい人」と訳すと、日本語としては分かりにくくなるので、「心の貧しい人」と訳されたのだと思う。
そこで、この「霊の貧しい人」というのは、神との関係の中での「貧しい人」のことになる。しかしそうすると神との関係が貧しい人が幸いなんだろうか。詩編では神との関係が豊かなことこそが幸いであると言っているようだが。
「心の貧しい人」とは、神の前で自分の貧しさを知る人のことなのかもしれない。神の前で誇るなにもない、神の前に差し出す物も何もない、そういうことかもしれない。今までこんないいことをしてきました、こんなに正しく生きてきました、そんなものは何もない、ただ神から憐れみを受けるもの、ただ愛を受ける者でしかない、そういう貧しさを持っている者、それが霊の貧しい人、心の貧しい人ということかもしれない。ただ神にすがるしかない者、実はそういう人こそ幸いなのだ、ということであるならば分かるような気がする。
貧しい人
ルカによる福音書6章20節以下の所に、同じ内容の話しが出てくる。マタイでは山上の説教だがルカでは平野の説教である。
そんなことはどうでもいいけと思うけれども、ルカでは「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」と書かれている。マタイとルカではちょっと違うところがある。マタイは天の国はその人たちのものである、だけれどルカでは神の国はあなたがたのものであると言われている。
そして一番大きな違いは、マタイにあった『心の』というのがルカにはない。ルカは貧しい人々は幸いであると言っている。
これについては、多くの学者は、ルカのテキストの方が元の形であっただろう、と言っている。すなわち、イエスの言われたのは、文字通り「貧しい人」だったというのだ。それをマタイは、「心の」というのを付け加えて精神化したという。また、「今飢えている人たち」もマタイの方では、「義に飢えかわいている人たち」と精神化しているし、「今泣いている人たち」も「悲しんでいる人たち」と抽象化されている。このようなことからもルカのテキストの方がもともとイエスが語った形に近いように思われる。貧しい人たちが、今飢えている人たちが、今泣いている人たちが幸いだ、なんてあまりにも過激な言い方だったのでマタイはそれを精神的なことと捉えて過激さを和らげたんではないか、ということのようだ。
しかしイエスに従ったガリラヤの人々は、多くは実際に貧しい人たちだったようだ。社会保障も何もない時代、貧しいということは社会的に本当に弱い存在だったであろう。人々から重んじられず、それどころか相手にもされなかった。今でもそうだけれど、金持ちが社会の中心にいて社会を切り盛りしている。貧しい人たちは社会の屑のような見方をされて、自分自身でもそのように思っていることが多いのではないか。だから貧しい人たちは物質的に困るだけでなく、人々からも相手にされないという孤独感、精神的な淋しさも味わわなければならなかった。
彼らは、自分の力の無さをも痛感し、もう神に頼るしかない、という気持ちだったのではないか。貧しいというのは、自分に何の頼りとするものがないということだ。そこでおのずと神により頼むという態度になる。そういう者たちがイエスに従っていたのだろう。
そういう人たちに向かってイエスは、神の国はあなたたちのものである、と言うのだ。
「神の国」というのは、神の支配ということ。神の支配の下にあるということが本当の幸せなのである。それが人間の本来のあり方であるからである。人間は本来神の支配の下にある者として造られた。なのに他のものに頼ることで、ある人は唯一の支配者である神から遠ざかっていく。
今の日本は、富んでいる国と言われている。しかしその反面精神的には、非常に荒廃している。すべてが金だ、という価値観だ。ものの価値を金に換算している。金に換算できないものの価値を見失っているように思う。
少し前クレジットカードの宣伝だったか、食べ物や飲み物やお土産なのか、色んな物の値段がいくらで、どれもカードで払えますよというような感じで、そして最後に、笑顔だったか思い出だったか優しさだったかpricelessというのが出てきた。つまり値段がつかないものがある、というようなコマーシャルがあった。そのコマーシャルでは値段のつかない大事なものがあるとことだったけれど、今の社会は値段がつかないことでだんだんとその大事さも分からなくなってきていて、思いやりや優しさなどはだんだんと価値を失っているような気がする。
私たちは何でもお金に置き換えて、お金でものの価値を考えるようになって、お金が全てであるような気持ちになっているのかもしれないと思う。そしてお金を持っていないことに対する嫌悪感がいっぱいあるような気がする。貧しくなることに対する恐怖感もいっぱいあるような気がする。
そんな私たちに向かってイエスは、お金にばかり縛られないでいいと私たちに言っているのかもしれない。お金がいっぱいあるときはにこにこしてて、少なくなるとしかめっ面をするような、財布の中身が幸せの度合いと思うような、そんなことになっている私たちに対して、そうではないんだ、もっともっと大事なものがあるんだ。あなたたちが勝手に不幸だと思っている状態も、そこをも神が支配しているならば幸福なのだ、やがて神が神の方法であなたを満たすから、やがて神があなたを笑わせてくれるから、だからさいわいなのだ、そう言われているのではないか。
いや、本当は理屈でどうこうではなく、貧しくて、腹減っていて、泣いている、あなたこそがさいわいなのだと言うイエスの声を聴くことだ。
幸せ?
幸せってなんだろうと考えたことがある。何と何があれば幸せなのかなと考えた時に、これとこれがあればなんていう明確な基準はないなあと思った。大きな家と大きなテレビと大きな車と、そんなのを持ちたいなと思うけれど、じゃあそればあったら幸せかと考えるとどうもそうでもないような気がする。本当は持ったことないので分からないけど。でもやっぱり持ちもんじゃないよなと思う。ものがいっぱいあっても幸せだと思う人もいるし思わない人もいる、ものがなくても幸せだと思う人もいるし思わない人もいる。そこで思ったのが案外幸せって自分がそう思うかどうかじゃないのかな、幸せかどうかの基準なんてやっぱりなくて、自分がどう思うかによって決まる、結局自分が決めているんじゃないかと思った。相田みつをって人の、『しあわせはいつもじぶんのこころがきめる』という言葉を見た時に、同じようなことを考えている人がいるんだ、と思った。幸せかどうかって自分で決められるような気がする。そして幸せだと思える事自体が幸せ、というか幸せだと思うことでなんか元気が出てくるような気がする。
イエスは、あんたたち幸せなんだよ、と言っているんじゃないか。全然幸せじゃない、こんなに貧しくて辛くて大変で、こんなの全然幸せじゃないと思っている私たちに向かってイエスは、あんたたち幸せなんだよと言われているのではないか。不幸だ不幸だと不幸をいっぱい数えている私たちに対して、それでもイエスはあんたらは幸いだ、神の国はあんたらのもんだし、わしはあんたらの味方じゃけえの、と言われているような気がする。
だからって厳しい現実がすぐになくなるわけじゃないけれど、でもその中で生きていこうかという元気がちょっと出てくるような気がする。