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礼拝メッセージより
「完全無欠」 2010年4月25日
聖書:マタイによる福音書 5章43-48節
ロックンローラー
昔、「完全無欠なロックンローラー」という曲があった。自分は完全無欠だ、完全無欠で生きていくとつっぱっているけれど、女の子達からは無視されている、というような歌。女の子達からは相手にされてないし欠点だらけなんだけど、俺は完全無欠なんだとつっぱっている、実は完全無欠なんかじゃないってことを自分でも分かっているのに、敢えて完全無欠だと強がって見せているかわいい男の歌なんじゃないかと思う。
なんとなくこの完全無欠っていう響きが好きで、今でも結婚式の時にも使っている。完全無欠になる必要はないし、自分の欠点を無くすことよりも相手を大切にすることの方が大事なんだ、なんて話しをしている。
しかしマタイによる福音書の山上の説教では完全無欠な人間なれと言われているような話しが出てくる。
敵を愛す
5章20節あたりのところから小見出しを見ると、腹を立ててはならない、離縁してはならない、誓ってはならない、復讐してはならない、なんてことが言われている。
そして今日のところでは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」なんてことが言われている。43節で言われているように、「隣人を愛し、敵を憎め」と言われた方がしっくりする。なのになんで敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい、なんて言われるのか。
それは、あなたがたが天の父の子となるためである、と言われている。そして天の父がだれにも太陽を昇らせ雨を降らせるように、誰に対しても愛を持って接しなさいということのようだ。だから自分を愛するものを愛するなんてのも、兄弟だけに挨拶することもまるで自慢することではない、と言う。なんともきびしい。
敵は憎むものだ。憎むからこそ敵、という気もする。敵とはだれのことなのか。敵の国、同じ国の中にも、同じ国民の中にも、同じ学校、会社の中にも、同じ教会の中にも、同じ家族の中にも敵となる者がいるのか。あるいはだれでも敵となる可能性があるのかもしれない。
ここで愛するとはただ好きになるということとは違うようだ。ここの愛するはアガペーと言われる言葉が使われているそうだ。これは通常神の愛の時に使う言葉。ただ好きであるということじゃなくて、たとえ自分がどんなことをされてもその人にとって一番いいことをしようとすることである。
そしてまた肉親を愛するという愛とは違うようである。肉親を愛する思いは自然に生まれる。愛さないではいられない。しかし敵を愛する愛は自然に心に芽生えては来ない。それは愛する気持ちになるというよりも愛そうとする意志である。愛そうとする決意。アガペーの愛とはそういう愛である。
そういう愛をもって人に接する、そしてその人のために祈る、敵でさえも祈る、迫害する者のためにも祈る、それが天の父の子となることだと言う。つまりそれこそが神に作られた人間にとってふさわしいことである、と言うのだ。
これは単なる理想論か。こんなことできない、という一言で片付けてしまいそうである。いくらイエスの言葉だからと言ってもこれはできない注文だ、と思いたくなる。できない私はだめなのよ、と言って自分を責めるか、出来る訳ないと開き直るかしかないのか。
完全な者
48節には「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」とある。
完全無欠の人間になれというのか。
難しい本によると、この完全と言う言葉は機能的なことに使う言葉だそうだ。旧約のいけにえとして献げる傷のない犠牲を指す言葉らしい。また成人した大人を指す言葉。また専門的な知識を持つようになった人を指す言葉なのだそうだ。
何かの目的のためにふさわしい者を指す言葉。あらゆる方面に全く欠点のない者のことではないそうだ。
つまりここで完全な者とは、人間本来の目的に適っている人間ということになるようだ。神にかたどって創られた人間にとってふさわしい生き方をするものと言うことだ。
つまり私たちにとってふさわしい生き方は人を愛する生き方だということだ。たとえそれが敵であっても。
もちろんそのための大前提は、神が私を愛し、私を憐れんでいる、私を赦している、ということだ。私たちの神はそういう仕方で私たちに接しておられる。だから私たちもこの神と同じように生きる、それが私たちにとってふさわしい、完全な生き方なのだろう。
悪人にも?
父なる神は悪人も善人にも同じように太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも同じように雨を降らせてくださる、と聞くときどう思うだろうか。
どうして悪人にも私と同じにするのか、あんな奴らには悪いものを与えればいいのにおかしいじゃないかと思うか。
悪人にまでいいものを与えなくてもいいのに、と思う。なぜそんなことをするのかと思うとき、そう思う自分は善人の側にいる。自分は善人の側だと勝手に思い込んでいる。本当は自分が善人かどうかわからないのに。本当は悪人の側にいるかもしれないのに。
私たちは一体善人なのか、悪人なのか。ついつい自分を善人の側においてしまっていることが多いのではないかと思う。自分が悪人の側だとしたら、悪人にも善人と同じ恵みを与えられるとしたら、こんな勿体ないことはない。こんなありがたいことはない。
実は私たちは悪人なのではないかと思う。神に従わない、神の言葉にそむいてばかりの悪人なのだ。しかしそんな私たちに対しても、神は太陽を昇らせ雨を降らせてくれている、善人と同じように恵みを与えてくれているのだろう。
あなたは一体どこに立っているのか、善人の側か、悪人の側か、実はそこを私たちは問われているのかもしれない。聖書を読んでも何の喜びもない、できもしないようなことばかり命令されていると思うことが多い。今日のところなどまさにそうだ。でもそう思うのは、善人じゃない自分を勝手に善人の側においてしまっているからかもしれない。
罪深い私を赦し、神の子として下さっていることに感激して喜ぶ、そこから私たちの信仰が始まるのだ。だからあなたたちは神の言葉を聞いて神の子としてふさわしく生きなさい、敵を愛して生きなさいというのだ。
敵である、悪人である私たちを神は愛してくれている、だからあなたたちもそのようにしなさい。それが完全な者となることだ、と言われいてるような気がする。
完全無欠なロックンローラーが、本当は欠点だらけで女の子からは見向きもされないで、全然完全無欠じゃないことをわかっていながら、それでもロックンローラーであろうとしてこだわっているように、あるいは誰からも見向きもされずばかにされたとしても、敵をも愛していく、愛する人間になるんだという思いにこだわっていきたいと思う。