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礼拝メッセージより
「誘惑」 2010年4月11日
聖書:マタイによる福音書 4章1-17節
誘惑
奇跡的なことを起こしてみろ、という誘惑、それはまた私たちが願うことでもある。奇跡的なことを起こして欲しいと願う。神なんだからそれくらい出来るだろう、そうしてこそ神ではないか、なんてことも思う。しかしそれこそが悪魔の誘惑なのかもしれない。
悪魔は聖書を引用して誘惑した。都合のいいようなところを選んでいるわけだ。おかしなところを引用していくことは悪魔の仕業なのかもしれない。もちろん悪魔が矢印の形をした尻尾をつけて、槍をもって目の前に現れるというわけではない。それなら悪魔の言うことを聞かないようにすることも簡単だ。でも悪魔の誘惑はそんなものではないのだろう。心の中に沸いてくる欲望となっていく誘惑らしい。そして私たちの思いと心を神から遠ざけていく。私たちを神から遠ざけていく欲望こそを、悪魔の誘惑と言うのかもしれないけれども。
パン
最初に悪魔は空腹になったイエスに、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言ったという。
人はパンがないと生きていけない。だから誰もがそのパンを一所懸命に求めている。いっぱいお金を持っていれば食べ物の心配をすることもないだろうと思う。
プロ野球の有名な選手は一年間に何億もの給料を稼ぐと聞く。そんなのを聞くと羨ましいし、自分の給料との余りの違いの呆然とする。何億とまではいかなくても、安定した高い給料を稼ぐために、良い職業につくことをめざし、そのために良い学校にいくことをめざし、そのために塾に行くというようなことも聞く。確かにそうやってうまくいけば給料の高い職業につけるのだろう。そうしたら毎日のパンの心配もあまりしないで生きていけるだろう。パンがあれば確かに生きていける。しかしただパンがあればそれでいいのかどうか。兎に角パンを食べて命を長らえればそれでいいのかどうかということだ。
もちろんパンがないと、食べ物がないと生きてはいけないわけだからパンは大事だ。戦争中は食べ物がなくて辛い思いをしたということを聞く。そしてそんなことがないようにということを目指してきた。そして飽食の時代となった。食べ物が満ちあふれるようになったから、それでみんなが幸せになれたのだろうか。どうやらそういうわけではなかったようだ。
食べ物も電気製品も車もいっぱいある、いろんな道具もいっぱい出来た。生活は便利になった、なのにどうしてこんなに悪い世の中なのか、なんて声も聞く。食べ物や道具では満足できない、それだけでは満たされないものが人間にはあるということだろう。イエスは、人はパンだけではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きると書いてある、言った。書いてあるというのは聖書に、私たちの聖書で言うと旧約聖書に書いてあると答えた。つまり人はパンだけで生きるのではなくて神の声によって生かされているというのだ。人間とは神に言葉によって生かされている生き物であるというのだ。
どこかの国で、生まれたばかりの赤ん坊に、ミルクは与えて必要な世話はするけれども、全く声をかけない、愛情をかけないという実験をしたという話しを読んだことがある。そうしたら、赤ん坊はみんな死んでしまったそうだ。どれほど信憑性があることか分からないけれども、私たちにとっては似たようなところがあると思う。私たちにとって神の言葉は、赤ん坊に対する親からの語りかけのような、私たちを生かす言葉なのだ。パンと神の言葉とどちらもが必要なのだ。それなのにパンだけを求めていても幸せにはなれないということなんだろう。
神を試す
次に悪魔は、イエスを神殿の屋根の端に立たせて、神の子なら飛び降りてみろ、天使が支えるからと言った。神が助けてくれるかどうか試してみろ、と言った。
どうか奇跡を起こして私を助けてください、私のために奇跡を起こしてください、と私たちも願うことがある。病気を治してください、試験に合格させてください、金持ちにしてください、そんな奇跡的なことを起こして私の願いを叶えてください、と思う。その願いを叶えてくれたら信じます、という風に。叶わないなら信じないとも。
人はしるしを求める。イエスに神の、キリストのしるしがあれば信じようという。イエスに願ったことで、祈ったことでこんなことが叶った、奇跡的に願いが叶ったというようなしるしがあればイエスを信じることも、神を信じることもできると思う。しかしイエスはしるしというしるしはひとつしかないと語っている。それはヨナのしるしである。
マタイ12:39 イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。 12:40 つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。
つまり十字架と復活、それが唯一のしるしであるというのだ。もうすでにしるしは与えられている。私たちを赦し、私たちを神の子としてくれるための神の業はもうすでに起こっている、私たちはもうすでに赦され、神の子とされているのだ。
神を試みるものは、これまでの神の恵みに満足していない。まだまだ満足しない、まだまだ安心できない、だから神を試みる。あれもしてくれ、これもしてくれと思う、奇跡を起こしてくれと思うとき、それは私たちが神の恵みを忘れ、感謝する思いを忘れてしまっているという時なのかもしれない。神の導きと守りを信じられないで不平を言っているようなものかもしれない。そんなだらしない神でどうするんですかと文句を言っているようなものかも。
悪魔崇拝
次に悪魔は、イエスを高い山に連れて行き、私を拝めばこれをみんな与えようと言った。世の中のものを全て貰えたらどんなだろうと思う。世の中の権力を全部自分が握れたら何をするだろうかと思う。きっと、独裁者のようにするだろうなと思う。何でも自分の思い通りにできるとしたら、まるで自分が神になったようになって、独裁者のように自分の欲望を丸出しにしていきそうな気がする。周りの者を脅して無理矢理にでも自分に従わせそうだ。でも反面、そうなったとしたらとても淋しく不安になってしまいそうでもある。自分の欲望を通すこと、自分のわがままを通すことは、その時には気分がいいのかもしれない、けれども無理矢理に自分の思い通りにしてもあまりうれしくないような気もする。
誘惑
イエスは悪魔の誘惑に、聖書を引用して対抗した。
悪魔の誘惑は、弱い人間として、弱い人間とともに生きていこうとしているイエスに対して、神となれ、人間から離れろ、と言っているような気がする。人間なんかのことは放っておいて神らしくしてなさい、俺と手を組んでしたい放題すればいいじゃないか、お前は神なんだから神のようにしてろよ、というようなものだった。
けれどもイエスは神らしくすることはしなかった。神の力を権威を発揮することをしなかった。ただ聖書で答えただけだ。イエスは人間の側に立って、人間と同じようにしようとしている、飽くまでも人間と共に生きようとされているかのようだ。
イエスはどこまでも、十字架につけられても、神の力を発揮せず、人間と共に生きようとされた。人間の弱さと罪を全部背負って、十字架につけられたのだ。イエスはそうやって私たちと共にいるという仕方で私たちを支えてくれているのだ。神の力を見せつけることで、神の力を発揮することで無理矢理に何もかも有無をいわせず外側から無理矢理に力ずくで自分の思い通りにさせるのではなく、私たちの側にいて私たちを愛するという仕方で、私に従ってくるようにと呼びかけるという仕方で私たちを招いているのだ。
悪魔の誘惑を退けた、それはイエスが私たちと共に生きようという、私たちの罪も何もかも全部背負っていこうという決意の表れでもあるのだろう。
イエスは誘惑に対して聖書で答えた。実は答えは聖書にあるのだ。聖書の中に書かれている。私たちにはもう答えは与えられているということだ。そしてイエスは世の終わりまで私たちと共にいる、それが私たちに対する約束である。私たちと共にいるために、そのことを私たちに告げるためにイエスは生まれたのだ。
悔い改め
その後イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えた。「悔い改めよ、天の国は近づいた。」これがイエスの教えの総括。
イエスは「悔い改めよ」と言う。何か、自分がよい人間になったから救われるというのではない。方向を転換して、神がイエス・キリストによってして下さったことを見なさい、と聖書は告げている。イエス・キリストによって私たちの罪は完全に赦されているという。神はそのような救い主を私たちのために遣わしてくださった。これが福音。
「悔い改め」とは何か。誰かが、「福音に対して、全身全霊をもって立ち向かうこと」と言っていた。要するに、イエスの方を向くこと、イエスに従うこと、全てをイエスにかけることであって単なる罪の懺悔ではない。悔い改めというと、一所懸命神に謝ることのようなイメージがある。私が悪うございました、私は罪を犯しました、私は本当に駄目な人間です、ごめんなさい、すいません、と言って下を向くことが悔い改めのようなイメージがある。でもそれは聖書の言う悔い改めではない。
悔い改めとは、方向を変えるということだ。神の方を向いていなかった者が神の方へ向きを変えるということだ。イエスの方へ向きを変えるということだ。イエスの方を向いてイエスに従うこと、イエスのあとについていくことだ。イエスを見ないで、ついていかないで、ただうつむいて下を向いていては、いくら自分のことを悔やんでも、謝っても、それは悔い改めではない。
イエスは私たちの悪いところをいちいち指摘して、ここがだめだ、これもだめだ、さあ謝れ、なんてことは言わなかった。イエスは人に謝ってもらうためにきたのでもない。イエスは自分についてくるように、と言われた。それこそが悔い改めなのだと思う。
イエスがやってきた。イエスが私たちのところへやってきた。私たちの全てを受け止めてくれる、罪や間違いや失敗や挫折にまみれた私たちをそのままに受け止めてくれるイエスがやってきた。いろいろな誘惑の中に生きる私たちの所へ、イエスは同じ弱い人間として来てくれた。だから天の国は近づいたのだ。イエスが共にいてくれるところ、そこが天の国なのだ。