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礼拝メッセージより
「尋ね人」 2010年4月4日
聖書:マタイによる福音書 28章1-10節
埋葬
今日はイースター、復活祭。1年の中で最もイエスの復活を祝う日。しかしそもそも教会で日曜日に礼拝しているのは、イエスが日曜日に復活したということから。かつては土曜日が神を礼拝する日だったようだ。ユダヤ教では今でも土曜日が聖なる日で、旧約聖書にも土曜日が聖なる日だと書かれている。しかしキリスト教では日曜日が復活の日だということで日曜日に礼拝するようになった。ということは日曜日の礼拝は毎週がイエスの復活を祝っているようなものでもある。
28:1に、安息日が終わって、と書かれている。その安息日とは春に行われている、かつてユダヤ人がエジプトを脱出した時のことを記念する過ぎ越しという祭りの時期の安息日のこと。
その安息日が始まる前の日、安息日は土曜日なのでその前の日、つまり金曜日にイエスは十字架に付けられた、ということが27章に書かれている。そしてその日の夕方には墓に入れられた。27章57節からを見ると、アリマタヤ出身のヨセフという人がイエスの遺体を亜麻布に包んで墓に葬ったことが書かれている。遠くからイエスの十字架の処刑を見守っていた女の人達のことが27章55節に書かれているが、61節では、その内の二人が墓を見にいったとある。
ユダヤ人たちが、イエスの弟子たちがイエスの遺体を盗んでおいて、イエスは復活したと言いふらさないように墓の石を封印して番兵もつけたなんてことも書かれている。
ユダヤの一日は日没とともに終わる。そして次の一日が日没とともに始まる。
墓に埋葬されたのが夕方であったということはその日がもうすぐ終わり、次の日が始まろうとしている時だった。イエスが十字架で処刑されたのが安息日の前の日なので、日没になると次の日、安息日になる。安息日は文字通り休む日だった。ユダヤでは労働をしない、してはいけない日だった。火をおこすことも薪を集めることも、食事の準備をしてもいけない日だった。また決められた距離よりも遠くへは行ってはいけないという決まりもあったそうだ。
安息日
イエスが十字架で処刑された次の日の安息日はいわば沈黙の日だった。聖書にもその安息日のことは何も書かれていない。
イエスについてきた彼女たちにとってはつらい沈黙の続く一日であったに違いない。彼女たちは事の成り行きをずっと見守っていた。この数日の出来事を見ていた。そして、イエスが十字架で処刑されたことによって、どれほどのショックを受けたであろう。イエスは捕らえられ、事態は思わぬ悪いほうへと向かっていった。そして結局は最悪の結果となった。
しかし彼女たちはそこを去ろうとはしない。死んでしまったイエスにも関わり続けようとする。男の弟子たちはみんなそこを去ってしまった。彼らは気が動転して、また自分自身の身の危険を感じてか、みんな逃げてしまった。
しかし彼女たちはどこか冷静である。あるいは強さがあるのかもしれない。地に足が付いている。マルコの福音書によると、彼女たちは安息日が終わるとイエスの遺体の処理をするための香料を買っている。処刑された日の夕方から始まった安息日が次の日の夕方で終わるのを待ちかねて買いに行ったのだろう。しかし週の初めの日は日没から始まるのですぐに夜になり暗くなってしまう。そして28:1にあるように、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、やっと墓に行けることになった。夜が明けて明るくなるのを待ちわびて、墓に向かって行ったのだろう。
石
しかし彼女たちにとってまだ大きな問題が残されていた。それは墓の入り口の石が封印されていて、番兵もついているということだった。番兵を説得して、石をどけてもわらないことには墓の中に入ることはできない。遺体の処理をすることもできない。番兵が墓に入れてくれるのかどうかもわからない。でも彼女たちは動き出している。動かないではいられないと言った感じがする。
しかし、その時大きな地震が起こり、天使が石をわきへ転がしたという。そして、イエスは復活してここにはいない、かねて言っていたように復活したのだ、急いで行って「あの方は復活されて先にガリラヤに行かれるからそこで会える」と弟子たちに告げなさい、なんてことを言う。婦人たちは恐れながらも大いに喜び、弟子たちに伝えるために走って行った。
するとそこでイエスに出会ったというのだ。イエスに会うために出かけた婦人達は墓の中でイエスに会うことは出来なかった。しかし墓の外でイエスの方から会いに来てくれている。
復活
イエスがどのように復活させられたのか、よくは分からない。どんな形で復活させられたのかもよく分からない。しかしよくは分からないが復活のイエスは自分について来ていた女たちや弟子たちに出会ったことが福音書に記されている。
弟子たちは絶望していた。彼らは仕事を捨ててイエスに従っていた。イエスの呼びかけに応えて、弟子となることを誇りに思ってついてきていたのだろう。いろんなイエスの奇跡も目撃し、イエスの言葉に諭されたり感動したりしながら、この人は偉大な人だという気持ちもだんだんと大きくなっていたに違いないと思う。ところがその自分たちの師匠が、実質的に社会を牛耳っていたユダヤ教の指導者たちの反感を買い、神を冒涜した、社会を混乱させたということで捕まり、十字架につけられて、強盗と同じように処刑されてしまったのだ。
世の中を正すと思っていた師匠がつかまってしまい、自分たちも社会の反逆グループ、いわば非国民のグループということになってしまったわけだ。今度は自分達が捕まって処刑されるかもしれないという恐怖もあったことだろう。しかしそこで立ち向かっていく力などとてもなかった。お先真っ暗、どうしていいのか全く分からない、恐怖と不安でいっぱい、弟子たちはきっとそんな状態で逃げていったのだろう。
ところがこそこそ逃げ回っていたような弟子たちは、やがてイエスのことを堂々と伝えるようになる。何が弟子たちをそうさせたのか。それはイエスとの出会い、復活のイエスとの出会いだったのだろう。復活のイエスとの出会いが弟子たちを変えた。復活のイエスとの出会いが絶望していた弟子たちに力を与えたのだ。イエスとの出会いは弟子たちにとっての復活でもあったのだろう。
イエスと出会うことで弟子たちにとっての復活があったように、私たちもイエスと出会うことで初めて私たちにとっての復活、イースターがやってくる。
私たちは今、顔と顔を合わせるようにイエスと会うことはできないだろう。しかし世の終わりまで私たちと共にいる、それがイエスの約束だ。見えないけれどもイエスは共にいてくれている。また私たちは聖書を通して、イエスの言葉を聞くことを通してイエスに出会うことができるのだと思う。イエスの言葉が私たちの心の中にあるとき、イエスは私たちの心の中に生きているようなものだ。
復活
イエスは、婦人たちに伝言を伝えた。それはイエスは先にガリラヤへ行かれるということだった。ガリラヤ、そこは弟子たちにとって生まれ育った所、またイエスについて行って活動した場所。かつてのイエスと生活を共にした場所。イエスの行動を見て、またイエスの言葉を聞いてきた所である。そこでまたお目にかかれる、と天使は告げる。
ガリラヤは弟子たちが逃げ帰って行く故郷でもあった。イエスを見捨てて逃げて行く所でもあった。落ちぶれて帰って行く場所でもあった。そこしか帰るところはなかった。しかしイエスはそこにも先に行かれるという。自分の駄目さを嘆き失望し挫折し、そして人目を避けて逃げ帰って行く所、そこにイエスは先に来ている、そこで待っているというのだ。
イエスは私たちと共にいるために復活させられた。落ち込み、絶望し、うつむいて逃げていく、そこでイエスは待っていてくれる。どんな時でも、いつまでも私たちと共にいるために、イエスは復活させられた。私たちが死にそうな時でも、死んだ後でも共にいるためにイエスは復活させられたのだ。
人は死んだ後どうなるのか、どこに行くのか。私たちには分からない。死とは何なのか、そして生きるとは何なのか、分かったようなつもりでいるがよく考えると分からないことだらけだ。そして死を前にして私たちは全く無力である。誰でも死ぬことはなんとなく分かっている。私たちの祖先たちもみんな死んでいる。得体の知れない闇が待ちかまえているような恐怖がある。
しかしイエスは死んで復活させられたという。イエスは死に呑み込まれたままではなかった。反対にイエスは死をも呑み込んでしまった。この神は、生きることも死ぬことも含めて全てを支配している、そんな神なのだ。
ある牧師がこんなことを言ったそうだ。私は教会で葬儀がある時など、亡くなって天国に行ったときには、先に亡くなった家族に会えますよ、親しかった方にも会えますよと説教してきた。でもそれは間違っていた。天国に行けばイエス様に会えますよ、と語るべきだった。
死んだ後どうなるかよくわからない、けれどもそこも神の支配しているところ、イエスの支配しているところ、そこでイエスに会うことができる、先に亡くなった方たちもきっとそんな希望をもって生き、そして死んでいったことだろう。
今日は召天者記念礼拝でもある。召天者の方たちが信じた神を一緒に見上げるため、召天者の方たちが聞いたイエスの言葉を一緒に聞くために集まっている。
生きているうちにはいろんなことがある。真っ暗闇に包まれるようなこともある。絶望するようなこともある。
しかしイエスは、すべてが暗闇に包まれてしまうような、そんな時にも、絶望する時でも、そしてやがて死んでいく時にも、どんな時にも共にいてくれる、そんな神だ。自分の方から私たちを尋ねて来てくれる、そんな神だ。イエスの方が私たちに会いたい、共にいたいと思っているのかもしれない。きっとそうなのだろう。だからこそいつも共にいてくれているのだろう。
先に召された方たちは、今もこのイエスの支配の中にいる、イエスと共にいる。私たちもやがてそこに行く、その希望を持って生きていきたいと思う。