聖書:コリントの信徒への手紙一 15章50-58節
復活の体
キリストは復活した。そしてそれは私たちもやがて復活させられるという希望となっている、ということが15章に書かれている。パウロは3節以下の所を見ると、最も大切なこととして伝えたのはキリストが私たちの罪のために死に、葬られ、三日目に復活したことだ、と書いている。
死者はどのように復活するのか、どんな体で復活するのか、そんなことが35節から書かれている。それは種を蒔いてそこから芽が出て実を結ぶようなものだという。芽が出て実を結ぶ時には、蒔いた種はすでに元の形はなくなっている。そのように復活の時には今のこの地上の体ではなく、天上の体が与えられるというのだ。今のこの体は朽ちるものであり、卑しいものであり、弱いものであるけれども、復活の体は朽ちないもの、輝かしいもの、力強いものとなるという。そしてそれは霊の体であるという。
それは何なのだといわれても説明しようがない。ただ神から与えられる霊の体として復活する、そうパウロは言うのだ。どんな体なのかよく分からないが、とにかく輝かしい朽ちない体で復活するという。
私たちは今罪と死に支配されている、卑しい弱い者として生きている。だから私たちはやがて必ず死を迎える。けれどもその死にずっと支配されてしまうわけではない。ずっと暗闇の中にいるのではないということのようだ。
死ねば何もかも終わりのような気がしている。ただの暗闇のような気がしている。もし死がただの暗闇だったら、私たちは暗闇に向かって進んでいることになる。その時私たちはどんな風に生きるのだろうか。
私たちは昼間みんなと遊んでいる子どものようなものじゃないかという気がしている。みんなと楽しく遊んでいても、やがて夜になると家に帰らないといけない。その家が自分の安心できる、暖かい家だったら喜んで帰っていく。
でもその家が安心できない家だったら、暗い家だったら、何が起こるかわからないような不安な家だったら、子どもは家にあまり帰りたくないだろうし、そんな家だったら昼間遊んでいる間も心から楽しんで遊ぶこともできないんじゃないかと思う。
反対に安心できる暖かい家があれば、子どもは心から楽しんで遊ぶことが出来るだろう。
死とは、私たちが夜になると帰っていくそんな家のような気がしている。
死がただの暗闇だとしたら、なるべく死には近づきたくない。そしていつも死に怯えて生きていかないといけない。しかし聖書は、死は敗北ではなく暗闇ではないという。キリストによって、私たちは死に勝利しているというのだ。
死は勝利にのみこまれたという。死によって私たちは敗北するのではない。そこで全てが断ち切られて、あらゆるものから見捨てられてひとりぼっちになってしまうのではない。死の先もさらに私たちは神の手の中に、神の導きの中にあるということだ。死のこっちと死のむこうは、私たちの目には全く別世界のように感じられるけれども、神の手の中にあることから言えば、死のこちらも向こうもつながっている。
キリストの復活はそのことの証明であり、私たちも同じように復活するという確かな約束であるとパウロは言う。キリストが死に勝利したから、私たちも死に負けることはなく、死に際しても神の手の中にあり続けるのだ。死は私たちを呑み込む暗闇ではなくなったということだろう。
しかもそこでは朽ちることのない、輝かしい、力強い天上の体を与えられるというのだ。パウロは、最後のラッパが鳴るとともに、一瞬のうちに死者は復活して朽ちない者とされる、と言う。そしてこの朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになる、と言う。
私たちは朽ちるべき、死ぬべきものだった。罪と死に支配されているものだった。しかしキリストによって、キリストの十字架の死と復活させられたことによって、キリストが死に勝利したことによって、私たちも朽ちないもの、死なないものとされたというのだ。
希望
だからパウロは、こういうわけだから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい、と言う。死をも越えた希望がある、そこから今のこの命を生きる力を与えられるということだろう。
今のこの命に希望がないから、この人生にどこにも希望がないから、ただ死んだ後に希望を持つのいうのではない。死をも越えた希望があるから今のこの命、もろい、はかない、この限りある命を生きる力が与えられるのだ。
キリストの十字架の復活を通して、弟子たちは自分が赦されていること、自分の全てを神が支えてくれていること、死の向こう側まで支えてくれていることを知った、だからその希望と喜びを持ってキリストを伝えていったのだ。その希望は今生きているこの自分を力付ける、そんな希望だったのだ。
だからパウロはその希望を持って主の業に励みなさいと言う。朽ちないものを与えられるから、主の業に励みなさいと言う。神のことばを聞いて、神の命令を聞いて、神から託されている務めを果たしていきなさい、ということだ。それは神を愛し隣人を愛していくこと、そのために自分を献げていくということだろう。
パウロは、主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです、と言う。主に結ばれていると苦労がない、というわけではないらしい。苦労はある。でもそれは無駄にはならないという。自分を献げること、隣人を愛していくこと、神の業に励むことは苦労することでもあるようだ。自分が苦労することをいやがっていては、僕はいつもいやがっているけれど、それでは隣人を愛することはできない。神の業に励むことはできないのだろう。
朽ちないものへと復活させられるという希望を与えられているからこそ、神を愛し隣人を愛しなさい、自分を献げなさい、それが神があなたがたを招いている生きる道だ、と言われているのではないか。
正直言うと
と、偉そうなことを言いつつ、でも正直言って、朽ちないものに復活するなんて言われても、自分自身が本当にそうなるのかおぼろである。パウロはどうしてこうも確信を持って語れるのか、半ば羨ましい気持ちである。死んだ後どうなるかなんてそんなにはっきりとわかるわけでもないだろうに、なんて思う。
35、36節に、しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。、と書かれている。この数日復活とはなんだろうと考えていて、なんだかわからないなあと思っていた。パウロが言う愚かな人になっていた。
どうしてパウロはここまで確信を持って復活があると言えるのかとずっと思っていた。どこに確たる証拠があるのか、なんて思いつつ注解書見たり他の人の説教を見たりしたけれど復活とはこうだというような明快な答えは見つけられなかった。
でも今朝になって、どうも探し方が違うような気がしてきた。そんなに明快な答えがあるわけがないような気がしてきた。一番大事なこと、なんて言われていることがこんなにあやふやでいいのかという心配もあるけれどまあいいかと思ってきた。
復活があるってことは、要するに帰る家があるってことなのかなという気がしている。死は終わりじゃなく、真っ暗闇でもなく、そこに私たちが帰る家があるってことじゃないかという気がしている。どんな間取りなのか、なんて詳しいことは全然わからないけれど、そこは私たちが安心して帰ることができる暖かい家なんだろうなという気がしている。
イエスがその家に帰れるようにしてくれている、ということかなと思う。その家があるから安心していっぱい遊びなさい、目一杯生きなさいと言われているんじゃないかと思う。
復活とはなんだなんていくら考えていても、そんなことどうして信じられるのかと思うばかりで、まさに本当に愚かな人だったけれど、やがて帰る家があると思うと、どことなくほっとしている。
復活の希望を持つということは、復活の証拠を手に入れることで得られるんじゃなくて、復活するのだという言葉を心の中に受け止めることなのかなと思う。