聖書:コリントの信徒への手紙一 14章26-33節前半
興味
テレビや雑誌でも相変わらず血液型なんとかとか、なんとか占いとかいうのをよくやっている。血液型とか、星座とか、そんな風に人間を4種類とか12種類とかに分類できる訳がないと思うけれど、どういうわけかなくならない。あるいは前世は誰それだった、なんて話しも何年か毎に出てくるような気がする。そういうのを好きな人がいっぱいいるということだろうか。
何か目に見えない物が自分たちを支配されていて、あなたの今日の運勢はこうです、と言われるとその秘密を知ることができた、秘密を手に入れたような気になるのだろうか。
そんな風に今では占いとか性格診断みたいなことに関しては批判的に見ているけれど、昔はもっと素直でテレビで言っていることは正しいことだと思っていたので、ノストラダムスの大予言とか、宇宙人がもうすぐやってくるとか、そういうのを見ると本当にそうなんだと思っていた。他の人が知らない秘密を知らされたような気になっていた。
教会に行くようになって、いつだったか覚えていないけれど異言というものがあるとしった。どこかで聞いたのか、何かで読んだのかそれさえも覚えていないけれど。異言を語る人がいる、というのを知って何だかすごく興味を覚えた。祈れば山が動く、なんてことを文字通り期待していたこともあるような人間なので、異言なんていう何とも神懸かり的な不思議なものにすごく憧れた。でも異言を語れたらかっこいいだろうなとか、俺にはできるんだぞというように威張れるだろうなというような不純な動機だった。
神学校に行っている時に異言で祈るなんて人もいたし、異言を語るという講師の集会にも行ったこともある。異言を語るようになりたい人のために祈ります、その人は手を挙げて下さいだったかな、頭に手をおいてというか祈ってもらったこともあった。けれど異言は語れなかった。
人に威張りたいとか、かっこよく見られたいなんていう不純な動機で求めてるからできないのかと思ったりもしたけれど、それも賜物ならそれを誰に与えるのかは神が決めることなんだろうから、こっちの願いどおりになるわけではないのだろうと思ったりした。でも本当はほしいおもちゃを貰えなかったような心境だった。
集会
今日の聖書の箇所ではコリントの教会の集会の様子がうかがえる。要するに礼拝の様子ということのようだけれど、そこでは詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、それを解釈していたようだ。
パウロは、異言を語る者がいれば二人かせいざい三人が順番に語り一人に解釈させなさい、解釈する者がいなければ教会では黙っていて自分自身と神に対して語りなさいとか、預言する者の場合は二人か三人が語りほかの者たちはそれを検討しなさいとか、座っているほかの人に啓示が与えられたら先に語りだしていた者は黙りなさいと語っている。
こうしなさいと言われているということはそうしてなかったということだろう。異言を語る人が何人も語っていたり、解釈するわけでもなくずっと語り続けていたのではないかと思う。あるいは預言をする者がいる時も次々と語っていたのだろう。23節には、皆が異言を語っているところへ教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか、なんてことが書かれている。それは多分かなり興奮状態というか陶酔しているというか、そんな状態だったのではないかと思う。まさに神懸かりな状態、少なくとも周りからはそんな風に見えたのだろう。
異言とは何なのか、自分が語れないのもあってどういうものなのかあまりよくはわからない。友だちが異言で祈るというのを聞いたことはあるけれど、なんだか意味不明なことをろうろうとしゃべっていた。自分が語ろうとして言っているのではなく口をついて自然に出てくる、普通に祈るよりも異言で祈る方がいいというようなことを言っていたように記憶している。
異言を神が語らせているのかもしれないけれど、他の者には全くわからないことだ。ただぶつぶつ何か意味不明なことを言っている変な奴にしか見えない。だからパウロは教会の集会ではそれを解釈しなさい、解釈する人がいなければ黙っていなさいという。
つまり異言を語るにしても、それを周りの者にわかるように伝えなさい、周りの者にそれを届けなさい、それが出来ないならば語ってはいけない、と言っているわけだ。異言を語ることで、語る本人が嬉しくて満足していたとしても、誰にもそれが伝わらなければ、それは単なる自己満足でしかないということなんだろう。
とどく言葉
こんなことを聞くと、異言を語れない僕はそれみたことかと思う。異言なんて意味はない、語るな、なんて思う。でもパウロは18節にあるように、他の誰よりも多くの異言を語れることを神に感謝していると言っている。異言を語れることはとても感謝なことなんだそうだ。そんなにいいものだったらやっぱり欲しいと思うけれど、そのパウロも続く19節では、他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります、と言っている。
教会では異言で語るよりも理性によって、これはみんなにわかる言葉でということだと思うけれど、理性によって五つの言葉を語る方をとると言っている。
コリントの教会の集会は誰かが異言を語ったり、他の人に啓示があるとその人が語り、あるいはまた他の人が預言を語り、それはかなり熱狂的な集会だったのかもしれない。そしてそういうことを語る人たちにとってはとても充実した楽しい集会だったのだろうと思う。でも、そこに初めて来た人にとっては意味のわからない、何か怪しいものに熱狂しているような、陶酔しているような、そんな集会になってしまっていたのだろうと思う。
パウロは自分だけが満足すること、自分たちだけが満たされること、それに対してそれではいけないと言っているようだ。異言を語ることを否定している訳ではなく、教会で、集会でそれを意味もわからず語ってもそれは何にもならない、却って新しい人たちに不信感を与えるだけだと言っている。
異言を語るか語らないかが問題ではなく、周りの人たちのことを考えているかどうか、初めてくるような人たちにわかる言葉を語っているか、とどく言葉を語っているか、届けようとしているかどうか、そこが問題なんだろうと思う。
今の教会でも、異言を語る人がいないけれど、何だか難しい言葉を使ったり、教会でしか通じないような言葉を使ってしまうことがあるのかもしれないと思う。新しい人たちにはよくわからないような、でも教会では聞き慣れた言葉を使うことで自分は信仰的だなんて思うようなこともあるのかもしれない。本当は自分自身もよく意味のわかってない言葉も使ったりすることもあるように思う。祈る時も意味もよくわからない難しい言葉を結構使ったりする。祈る時にしか使わない言葉もあったり。天にましますとか、願わくは、なんて普段全然使わないけどなあ、なんて思う。
普段使わない言葉って、きっと新しい人たちには通じないんじゃないかと思う。
そして一つ一つの言葉もそうだけれど、語る内容も所謂信仰的なことがらを語っても、それが本心でなければ、正直な気持ちでなければそれは相手には届かないのではないかと思う。
牧師の妻をしているある人の話しを聞いたことがある。その人の子どもが交通事故で亡くなったそうだ。葬儀の時だったかな、その牧師の妻は感謝です、と言ったそうだ。でも後で一人になった時に泣いていたそうだ。
それは正直な気持ちなんだろうか。全てのことを感謝すること、それは信仰的なことなのかもしれないけれど、なんだか信仰的なことを言わないといけないという思いから無理矢理語っているような気がする。感謝です、と言うのは信仰的な言葉かもしれないけれど、僕にとっては意味不明言葉に聞こえてきて、心に響かないというか、きれいごとじゃないのかと思えてしまう。それは僕自身がただ不信仰なのかもしれないけれど。
神さま、どうしてこんなことになったのか、なんでこんなことを許すのですか、それが正直な気持ちじゃないのかと思う。そして正直な気持ちこそ相手にとどくのではないかと思う。
綺麗事ではなく、ただ信仰的な言葉を使うのではなく、正直な気持ちを語る、教会でこそ、教会の集まりでこそそんな相手にとどく言葉を語ることが大事なんだということを教えられているのではないかと思う。