聖書:コリントの信徒への手紙一 12章31節後半-13章13節
アンケート
好きな言葉はなんですか、というアンケートにほとんど必ず愛が登場する。また少し前には子どもの名前に愛とつける人が多かった。
日本ではひと頃、愛とは男女の関係の言葉として普通にはあまり使わない言葉のように感じる時もあったけれど、最近は親子や家族に対する言葉としても普通に使われるようになったような気がする。欧米の映画やドラマでは、愛しているという言葉が頻繁に使われていて、そんな影響もあるのかなと思う。
最高の賜物
コリントの信徒への手紙一12章で、体はそれぞれ違う多くの部分がまとまって一つの体となっているように、キリストの体つまり教会は一人一人がその部分であること、そして神は教会の中の人それぞれにいろんな賜物を与えられている、ということが書かれている。
しかしその賜物も愛がなければ、何もならない、という。愛がなければそれは賜物の用をなさない。賜物として威力を発揮しない。
つまりここでいう愛とは単なる親切とか、誰かを好きだとか言うことではない。
12:31であなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。と語っている。
愛とはもっとも大きな賜物である、という。
その愛がなければどんな賜物を持っていても何にもならないという。
とても人間が持てないようないろいろな賜物を持っていても、異言を語っても、あらゆる神秘と知識に通じていても、完全な信仰を持っていても、全財産を貧しい人のために使い尽くそうとも、誇ろうとして我が身を死に引き渡そうとも、愛がなければ何にもならない。とパウロは言う。施しとかいのちを捨てること自体は愛ではない。というのだ。愛のない施しもあるということか。確かにそうだが。
愛とは
さらに13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。とパウロは言う。
愛は決して滅びない
続いて、預言は廃れ、異言は止み、知識は廃れよう、とパウロは言う。
預言も異言も、そんな賜物はないみたいなので廃れる以前にもともと持ってないから関係ないと言う気もするけれど、そんな特別な賜物も廃れるとしても愛は決して滅びない、何があっても愛が大事だと言っている。
続いて、私たちの知っていることは今は一部分でしかない。神についての知識も一部分である。預言にしても異言にしても私たちが持っているかぎりは完全なものではない。完全なものが来た時には部分的なものはすたれる。
その後に書いてあるように、大人になれば幼子の時のようなことをしなくなる。その時には神をはっきりと知るようになる、と言う。
しかし何でここでそんな話しをするのかよく分からない。
しかし兎に角信仰と希望と愛はいつまでも残る。そのうちでもっとも大いなるものは愛である、という。
愛がない
結局そんな愛は私にはない、ということになってしまいそうだ。愛がどれほどすばらしいものかなんとなく分かる気がする。しかしその愛が自分にはないのではないかと思える。
コリントの教会にその愛はあったのか。必ずしも教会中が愛で満ち溢れていた訳ではなさそうだ。教会が分裂して、誰が一番の賜物を持っているかなんてことを言っていたらしい。
だからこそパウロはコリントの教会に愛について語っているのではないかと思う。
私たちも自分が何を持っているか、ということについては熱心になることが多いのではないか。こんなに財産を持っている、こんなに地位を持っているなんてことや、学歴、知識、名誉、才能、技術、果てはこんなにいい家族を持っている、こんなに信仰を持っているなんてこともあるように思う。良い物を持つことは結構なことだけれど、そのことを威張りたくなるのが私たちの常だ。
自分の歴史や信仰までも自慢の種になってしまうことさえある。苦しいことに直面していて、今こんなに大変なんだということを分かって欲しくて話しをした時に、それを聞いてた人が私はもっと苦労してきた、こんなに頑張ってきた、苦しい時でも祈って耐えてきた、なんて言われて、話しを聞いて欲しかったのに逆に自慢話を聞かされたなんてこともよくあるみたいだ。そうすると、あなたはまだまだ甘いと言われたみたいになって余計苦しくなってしまったりする。
兎に角、私はいろんなものを持つことを目指す傾向にあるのではないかと思う。あれもこれもいっぱい持つことを目指して、良い物をいっぱい持つことが幸せなことだという風に考えがちなのではないかと思う。
でも愛というのは持てないものなのではないかと思う。自分の中に持っている間は愛ではないような気がする。誰かに与えることで初めて愛と言えるのじゃないかと思う。誰かを大切にする思い、誰かを大切にする行為、愛とはそういうものだろうと思う。だから愛には相手が必要なのだ。自分を愛するというのもあるけれど、自分という相手を大切にする、と無理矢理解釈すると、愛とはやっぱり相手が必要で、その相手に思いや行為を与えていくこと何ではないかと思う。
私たちは持つことを目指すことが多いけれど、でも愛は反対に与えていくことなんだと思う。
求めるもの
パウロは愛を熱心に求めなさい、と言っている。愛が賜物ならば求めるものである。もともと人間にはないものということになる。元々ないものを持つためにはどこかから手に入れねばならない。そしてそれは神から貰わねばならないものらしい。
神から貰わないといけないということは、愛は自分の中に自然に発生するものではない、ということである。
だから愛とはただ人を好きだとかいう感情ではないのだろう。感情だとするとそれはいつなくなってもおかしくはない。いつまでも残るものでもない。
では神から貰うとはどういうことか。愛を品物のように貰う訳にはいかない。愛は自分が愛されること、愛されていることを知るところに生まれるものだろうと思う。つまり神に愛されていることを知ることで自分の中に愛が生まれる。神から愛を貰うとは神から愛されていることを知ることではないか。
神からどれほど愛されているかを私たちはもっともっと知る必要があるのかもしれない。
ヨハネ3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。とある。
神に愛されている、というところが一番大事なのだろう。
愛は信仰よりも希望よりも大いなるものだそうだ。教会では信仰を持っていることが一番大事なことのように言われることが多いのかもしれない。信仰も持ってしまうと自慢の種になりうるのだろう。持つことよりも与えることが大切なのだろう。