聖書:コリントの信徒への手紙一 12章12-26節
からだ
一つの体もいろいろな部分からできている、という話しをする。体にいろんな部分があるなんて当たり前だろうという気がする。他と違うから体の一部でないなんてことはないとか、他の部分にお前は要らないとは言えないとか、なんだかくどいよという感じすらする。
12節に「キリストの場合も同様である」とあるように、体の部分のことを話しているが、結局はキリストのことを語っている。キリストの体にいろんな部分があるということを語っている。そして27節では「あなたがたはキリストの体であり、また一人一人はその部分です」と言う。つまりコリントの教会のひとりひとりがキリストの体である、キリストの体のそれぞれの部分だと言っている。
いろいろな部分
体にいろいろな部分があるように、教会にもいろいろな部分がある、というのだ。みんな違うのだ。みんなが同じではない。
みんながそれぞれに違っている、けれども違っていながらひとつの体を形作っている。違っているから私は別の体である、という訳ではない。違っているから同じ教会の中の一員ではない、とは言えない。違っていていいのだ。金子みずずさんの詩に『みんなちがってみんないい』というのがあるけれど、私たちもみんな違う、違ってていい。
というか、違っていないといけない。みんなが同じではいけない。みんな同じかっこうして、同じ考えを持っていてはいけない。それでは体として成り立たない、教会としても成り立たない。違う人間が集まってこそ教会となる。とパウロは言っている。
みんなが大事
でも、自分は何もできてない、誰かのように立派な働きもできてない、あの人のように何かの役に立っているわけでもない、ろくに献金もできないし、役に立つような能力も知恵もないし、と思う。それどころかみんなの迷惑になっているだけ、足手まといでしかない、ただの穀潰しでしかないんじゃないのか、なんて思うこともある。
しかし24節には「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました」なんて言っている。
見劣りのする部分、他よりも弱く見える部分、何の役にも立っていないと思えるような部分、そこを神は引き立たせると言う。つまり、弱い人、必要ないと思えるような人こそを神は引き立たせる、大切にするということなんだろうと思う。
でも今の社会はだれもが弱くないことを目指している。力を得ることを目指している。
『近年、とみに強調されてきたのは「強さ」や「力」の鼓舞である。子どもたちは「速さ」と共に「強さ」を要求されて育てられている。「負けちゃいけないよ」「この競争社会を生き抜くために」「生き残りをかけて」いずれも強さの強調である。しかし、それに比例して社会全体から慎みや礼儀、思いやりやいたわりといった人間関係の基本的な要素が失われていったことは明らかである。とにかく勝てばよい、もうければそれでよいのである。しかし、私たちは「誰も信用できない」という心の孤独を体験することになってしまったのである。』
『ところで、トゥルニエはこの本(強い人と弱い人)の中で次のように言っている。「人間の本当の価値は人がどれだけ近いかにある。現在人類が必要としているものに、親切、安心、情緒、感受性、美、直感といった属性がある。ところが今日それらは「弱い」というレッテルの下に捨て去られている」』 (「いのちのことば」 97年1月号)
弱いと言われる人、弱いと分かっている人が実は必要である。
パウロも「体の中で他よりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(22節)と言っている。
自分は大したこと何もできないから、何の役にも立たないからだめだ、と思う。その謙虚さはとても大事だろうが、その謙虚さを持ち続けてできることをしていけばいい。何もできないに固執することはない。多分何もできない、と思うからできなくなるんだと思う。
自分が駄目だと思う人を神が格好よくしようとし、見栄えよくしようとするのだから。その人の上に神は力をあらわすということだ。
キリストの体
神はキリストの体として私たちを集められた。そして私たちを体として組み立てられた。必要に応じて、必要なところに組み合わせた。神が組み合わせているのだ。神が必要と思っているところに必要な人を集めている。神がそうしているのだ。私たちは神が集められたのだ。神によって集められているのだ。神が必要だから。教会にとって必要だから。
お互いを必要としている
また私たちはお互いが必要である。ひとつの部分がないと体がが成り立たないように、誰もが必要である。またからだのひとつの部分が調子悪ければ体全体の調子も狂ってくるように、一人の人が苦しむことは教会全体の苦しみでもある。
自分がいても迷惑なだけと思うかもしれない。でも体の一部が弱っていても他に迷惑をかけたくないといってそこだけ切り離すことができないように、自分がいても迷惑なだけと思う、その人が教会には必要なのだ。その人がそこにいることが大切なのだ。
自分のできることをしていこう。自分のしたいことをしていこう。それが教会を生かす生き生きとさせる。それは誰かに一言声を掛けることかもしれない。微笑むことかもしれない。
教会は集まることが中心だ。集まって何かをするのは次のことだろう。兎に角安心して、喜んで集まる。それが教会だ。みんなが集まることが大事。
神を信じていれば教会に集まらなくったっていいような気もする。でも聖書は集まることが大事だと言っているようだ。一人ではキリストの体とはならない、集まってこそキリストの体となるということなんだろう。
神は私たちそれぞれをキリストの体の一部分として集められている。兎に角集まることが大切なのだ。私たち自身が喜んでこれる集まりを作っていきたいと思う。キリストの体として集められていることを喜んでいこう。