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礼拝メッセージより
「愚か者」 2010年1月31日
聖書:コリントの信徒への手紙一 4章6-13節
分裂
パウロは自分とアポロとに当てはめて述べてきた、と語る。コリント教会の人たちはここにあるように「一人を持ち上げ、一人をないがしろにし、高ぶっていた」。アポロとパウロは教養や性格においても対照的な所があったようだ。しかしアポロとパウロは仲たがいしているわけではなく、共にイエスに仕えている。アポロとパウロは結局はひとつである。ひとつの務めのそれぞれ自分に与えられた分を行ったに過ぎない。
なのにあなたたちコリント教会の人たちは、ひとりを持ち上げ、ひとりをないがしろにしている。そして自分たちが高ぶっている。
「書かれているもの以上に出ない」意味ははっきりしない。書かれているもの、とは旧約聖書のことか。そうすると書かれているもの以上に出ない、とは聖書の権威を越えるほどに誰かを持ち上げるようなことをしない、ということかもしれない。
パウロは自分を賞賛し、自分を持ち上げる者たちに対しても語り掛けている。パウロは自分を必要以上に持ち上げることに対しても、それは間違っていると語る。彼にとって自分が評価され認められることは二の次のことのようだ。そればかりか余りにも自分が評価されすぎることに対して警戒している。人を評価し、その人を頼りにすることによって本当に大事なものを見失うことになることを恐れているのかもしれない。そしてコリントの教会がまさにその通りになっていたのだろう。こっちの先生こそが優れている、いやあっちの先生だ、なんてことを言っていたのかもしれない。誰がもっとも優れているか、誰が本当の指導者か、なんてことにこだわっていたのかも。そしてこの先生こそが本当に優れていて、その先生を大事にする自分たちもまた一番優れたグループだと思っていたのかもしれない。
あいつらはけしからん奴等だ、と言う時、やはり自分たちは優れていると思っている。自分の方が優れていると思っていないと人の悪口は言えない。どうしてコリントの教会の人たちは自分たちが優れていると思ったのか。
受けたもの
持っているものでいただかなったものがあるのか、とパウロは問い掛ける。たとえ優れたものを持っていたとしても、それは結局はもらったものだ。優れたものにしてもらったに過ぎない。自分で作り出せるものがあるのか、と問い掛ける。私たちは全てをいただいている、もらっている、なのにどうしてもらったものとして謙虚になれないのか。
優れたものとなっているとしても、それはただ受けたものだ、もらったことで自分が優れたものとなるわけではない、なのにそのことを忘れて良いものをもらったことで自分たちが優れた者になったように思ってしまう所に仲たがいがおこり紛争がおこる。一人を持ち上げ一人をないがしろにすることが始まる。パウロを持ち上げ、アポロを持ち上げ、しかし結局はそれは自分たちを、そして自分を持ち上げることでもあるのだろう。
そんな高ぶりが起こる。高ぶりの気持ちのあるところでは自分を持ち上げ、人を引き下げる。自分の優れた面を見、人の悪い面を見る。自分たちをことさら評価し、相手側を不当に低く評価する。そこにコリント教会の仲たがいのもとがあるということだろう。
既に満足
続いてパウロは「あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。」と語る。
パウロはここまでコリント教会の仲たがいについて語ってきた。
満足とは、信仰生活に満足しきっているということだろう。自分の信仰によって優れたものとなり、強い人間になったと思っているということだろう。しかしそれは、人間が強いと思うことがかえって弱いことである、というパウロの語ってきた、そしてここでも語ることとは違うことである。パウロの名を称えながら、パウロの教えをないがしろにしていたということだろう。アポロのグループもそうだったのかもしれない。
あなたたちが満足し、大金持になっている、とは皮肉であって、使徒たちへの批判を行うまでに傲慢になっているということでもあろう。傲慢な点では満ち足りており大金持になっている、ということかもしれない。そしてすでに神の国を手に入れており、それも自分たちの力で手に入れたかのように誇っている、自分たちこそが神の国の王になってしまっていると思い込んでいるということだろう。
実際に王様になっていてくれているのであれば、それはそれで嬉しいことだ、とパウロは語る。そうしたら自分たちも同じように王になれたはずだから、と言う。しかし実際には王になっていないのに、なっているかのように思っているだけでしかないと言う。それは一番こっけいで悲しいだ。
死刑囚
パウロは続いて「神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。」と語る。
ローマの将軍が大勝利をおさめた時、彼はすべての戦利品をたずさえた凱旋軍を街頭行進させることを許されていた。彼の勝利と功績とを、そうやって人々に見せびらかすことを許されていた。そしてその行進は凱旋式と呼ばれていた。だが、その行進のしんがりに、死の運命にある捕虜の小集団が加えられていたのだ。彼らは闘技場に連れて行かれ、野獣と戦い、そして死ぬ定めになっていた。
神は使徒をそのような最後に引き出され、見せ物となるものとされた、とパウロは言う。王様ではなく、最後に引き出されるものにしたと言うのだ。
神が自分たちを王にではなく見せ者にされている、と言うのだ。
愚か者
パウロはここで自分の歩んできた生活を回顧する。キリストのために愚か者となり、弱く、侮辱されている。飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいる。それは大変な生涯だ。しかし彼はそれこそが自分に与えられた道であり、使徒としての道であり、またキリスト者の道でもあることを語っているのだろう。
聖書教育の少年少女科の資料として本田哲郎さんの「小さくされた者の側に立つ神」という本が紹介されている。
それを見ると、コリントの信徒への手紙二12:9-10『12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。』の中の、「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています」と訳されているところについて、原文からは「弱さ、侮辱、窮乏、迫害、行き詰まりの状態にあることをキリストのために満足しています」としか読めないのに、多くの訳は「・・・の状態にあっても」と訳している。つまり弱さ、侮辱、窮乏、迫害、行き詰まりにあることは本来の状態ではないという思いこみがある。さまざまなハンディを背負って苦しんでいる人々こそ、福音を正しく理解する人であり、福音が告げる解放を実現するために、何を、どのようにすればよいかを知る人であるとパウロは言っているのです、と本田さんは書かれているそうだ。
行き詰まりにあることを、弱さや侮辱や迫害をキリストのために満足しているなんて。何なんだ一体。
確かに弱さや侮辱や行き詰まり、それは私たちの人生そのもののような気がする。みんなそういうものを抱えて生きているような気がする。弱さを克服したい、行き詰まりを乗り越えたいと願いつつ、克服できない乗り越えられない現実に押しつぶされそうになっている。
でも神は、克服できない、乗り越えられない私たちと共にいてくれている、ということなんだろうと思う。立ち向かう勇気も元気もなくしてうずくまっている私たちと共にいてくれているのではないか、そんな私たちを抱きかかえてくれているのではないか、と思う。
強くなり、賢い者となり、尊敬されたいと願い気持ちがいっぱいある。けれどもそれを求めることは教会の目指す所ではないということだろう。強くなり賢くなり尊敬されることを求める所に実は仲たがいが争いが待っている。
愚か者となり、弱く、侮辱される、それはイエスの歩いてきた道である。そしてそれがまたキリスト者の歩む道でもある。イエスに従うとはそんな人生を歩むことなんだろう。イエスと共に行き詰まりの人生をしっかりと生きる、そこにこそ神の強さがあるのではないかと思う。