前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「そのままに」 2010年2月7日
聖書:コリントの信徒への手紙一 7章17-24節
召し
神に召されたときの身分のままで歩みなさい、ということで割礼についてと奴隷について書かれている。
割礼
割礼を受けている者が召されたのなら割礼の跡を無くそうとしてはいけない、割礼を受けていない者が召されたのなら割礼を受けようとしてはいけない、とパウロは言う。
ユダヤ人たちは割礼を受けるということを大切にしていたらしくて、割礼を受けることが神とのつながりを持つ第一歩というか大前提というように思っていたのではないかと思う。割礼をうけることでまともな人間となることというような感じだったのではないかと思う。割礼を受けることで正式なユダヤ人となるということだったらしい。パウロ自身もユダヤ人なので当然割礼を受けていたはずだ。そのパウロが割礼が問題ではない、受けていても受けていなくても関係ない、というところがすごい。割礼問題は聖書の中に度々登場するように、大きな問題だったようだ。
今の私たちから考えると、割礼なんて関係ないだろと簡単に思えるけれど、生まれた時からユダヤ人の中に生きてきた人たちにとっては重大な問題だったのだろう。割礼を受けている、ということを大事に思ってきた人にとって、それが問題ではないと言われることは、そう簡単に受け入れられることではなかったのだろう。
ユダヤ人でキリスト者となった人たちの中に、やっぱり割礼を受けないといけないということを主張した人たちがいたらしいけれど、それほどに割礼を大事にしてきたということでもあるんだろう。パウロもきっと大事に思ってきたんだろうけれど、でもパウロにとってはそんなことは全く問題ではないと言っているようだ。彼は何かをつかんだのではないかと思う。それまで大事にしてきたものを放り出しても構わないと思える何かをつかんだから、そんなものはどうでもいいと言うようになったのだろう。
奴隷
そしてもう一つ奴隷の話が出てくる。召された時に奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません、自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい、と言う。気にしてはいけません、と言われても奴隷として苦労しているならば気にしないわけにはいかないんじゃないかと思うけど。
この21節の後半は直訳すると「もし、自由の身になれる時は、むしろ使いなさい」となるそうだ。自由になれるんだったらその機会を使って自由になりなさい、という意味にも取れるみたいで、そのように訳している聖書もある。口語訳も「しかし、もし自由の身になりうるなら、むしろ自由になりなさい」と訳している。でも新共同訳は、それを使いなさいというのを奴隷という身分を使いなさい、という風に解釈してそのままでいなさい、と訳している。
まるで正反対の訳があるけれど、その前後には召された時の身分のままにと書かれているので、奴隷のままでいなさいという風に解釈した方がいいんだろうと思う。
なぜ奴隷のままでいなさいと言うかというと、主によって自由の身にされたから、身代金を払って買い取られたことでキリストの奴隷となっているからだと言う。
当時の奴隷も一所懸命に努力して自由を買い取ることもできたそうだ。ある本にこんなことが書かれていた。
わずかの余暇を利用して雑用をして、二,三枚の銅貨をかせぐ。そして少しずつ稼いだ金を、何かの神をまつった宮にあずけておく。それから長年ののち、自分を買い取るだけの金が貯まる。すると彼は主人を宮に連れていく。祭司がその金を主人に手渡す。そのとき、奴隷は象徴的に神の所有物となり、すべての人間から自由になる。
そういう風にして苦労して自由になる術がまるでないわけではなかったようだ。しかしパウロは主によって召された奴隷はキリストによって身代金を払って買い取られた、と言っている。もう買い取られていると言っている。だからそのままでいなさいと言っているようだ。
キリストの奴隷にされているんだからそのままにということなんだろうけれど、しかし現実には奴隷である人は誰かの奴隷であることに変わりはない。キリストの奴隷とされたけれども、それで誰かの奴隷であることを止められたわけではないのだ。でもそのままでいなさい、と言う。それはどういうことか。
そのままに
割礼に関して、割礼の跡を無くそうとしてはいけないと言った。また受けていない者が受けようとしてもいけないとも言った。無くそうということは自分の過去を消そうとするということかなと思う。自分の失敗や間違いを消そうとすることでもあるように思う。そんなことはしなくても良いというなんだろうと思う。反対に割礼を受けないといけないと思うということは、何か自分に足りないことがあるからそれをしとかないと、と思っているということではないかと思う。
キリストは私たちをただただそのままに召されているのだとパウロはいいたいのではないかと思う。これまでの間違いや失敗を抱えたままの私たちを、あれもこれも足りてないんじゃないか、大事なものが全然足りてないんじゃないかと思っている私たちを、そのままに召してくれているのだと言っているような気がする。
またいろんなしがらみの中で生きている者も、奴隷の者も、あるいはいろんな不条理を背負わされている中で、そこから抜け出す知恵も力もなくてその不条理やしがらみの中に生きるしかない、そんな私たちも、キリストはそのままに召してくれていると言っているのではないかと思う。
何とか変わりたいと思う気持ちがある。強い立派な人間になりたいと思う。そのくせなかなか変われない。変われない自分がまた嫌になったりする。
しかしそんなあなたたちはもうすでにキリストの奴隷とされている、キリストのものとされているのだとパウロは言っているのだろう。
そのままのあなたがキリストのものとされているのだ、だからそのままで、間違いも失敗も弱さも、そしていろんなしがらみも持ったままで、そのままで神の前にとどまっていなさい、と言われているのではないかと思う。