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礼拝メッセージより
「キリストが土台」 2010年1月24日
聖書:コリントの信徒への手紙一 3章10-17節
人生の土台
テストを返してもらうと隣の生徒の点数が気になった。自分の方がいい点だと、よっしゃと思い、低い点だとだめかと思ったもんだ。
いつも周りの人のことが気になる。周りと自分を比べてしまう。周りとの関係で自分を計る。周りよりも上にいると思えると安心し、下にいると思うと相手をひがみ或いは自分を責める。いつも競争している。人よりも上にいることこそが価値があり、その人こそ価値があると思っている。でも人より点がいいことで自分の存在価値があるとすれば結局は世界一の人しか価値が無いということになる。気が付けばそんな価値観を持っていた。
どんなことでも世界一の人が一番価値がある、日本の中でも日本一の人が一番価値がある、そして二番以下の人はそれほど価値はないと思っていた。だからテレビにいろんな歌手が出てくるのがよく分からなかった。一番歌の上手い人は一人しかいないはずだと思っていた。だからそれより下手な人がいっぱい出てくるのが不思議だった。一番上手い人の歌を聴いていればいいじゃないかと思っていた。
世界で一番偉い人もひとりだけいるのだと思っていた。そしてその一番になるために競争しているのだと思っていた。人生は一番になるための競争なのだと思っていた。そしてどうせ自分は一番ではないし、なれるわけでもないし、自分はどうせ負け犬に決まっている思っている。
そんな風に一番は一番すぐれている人間で、そこから2番、3番とずっと順番があると思っていた。だから自分がどのあたりなのかをずっと気にしていた。そして自分が周りよりも秀でていると思えるときは勝ち誇った気分になって、劣っていると思うと萎縮してしまうようなところがある。だから周りと比較して自分がいい人間だと思ったり、駄目な人間だと思ったりする。
そうやってまわりと競争すると同時に、また周りと一所懸命にあわせても来た。周りに受け入れられるように、周りに喜ばれるように、そのためにまわりと違うことを主張しないように、合わせるするようにと考えてきた。だから本当の自分の好きなこと、自分のしたいこと、自分のしたくないことなんてのをおおっぴらに言わないようにしてきた。
周りと違う意見を言うことが悪いことだという気持ちがある。ある時何人かで話しているのを横で聞いていた時、みんなであの人は素敵だね、いいよねと話している時に、一人の人が私は嫌いと言ったことがあった。そんなこと言っていいのかとちょっとどきっとしたけれど、別にその場の雰囲気が壊れるわけでもなく普通に話しが続いていったことがあった。それを横で聞きつつ、この人は自分の嫌いなものを嫌いだと言えるんだ、と羨ましく思い、この人達はそんな違いも普通に受け止められるんだと思って聞いていた。結局自分自身が違う意見を言いづらいのは、自分に対して違う意見を言われることを怖れる気持ちがあるんだろうなと思った。結局違う意見を言われることで自分の駄目さを指摘されるんじゃないかと怖れていて、それは自分自身が今の自分を認めていない、今のこの自分を赦していないことなんじゃないかと思っている。
だから何かをしようと思っても周りの人の顔色をうかがってしまう。自分がしたいからそれをするのではなく、それをしても周りから変な目で見られないからする、周りから文句が出ないことをする、なんて事がある。
根無し草、というやつだ。自分が確かなものの上に立っていない。頼りとするものがないのかなあ、という気がする。
まるでない訳ではない。しかしそれは誰それがこういった、あの人がああ言った、そしてそれを支持する人たちが大勢いるから安心だというようなものだ。それを土台としている。あの偉い人がこう言ったからとか、みんながこうしているからとかいうようなもの、結局それを土台にしようとしているようだ。
コリント教会の土台
コリント教会の人にとっての土台もそのようなものだったのじゃないかと想像する。コリント教会にはパウロと言う名の下に集まっているグループを土台とする者、アポロと言う名のもとに集まっているグループを土台とする者などがいたようだ。
パウロはそのコリント教会の土台を据えた、と言う。その土台をパウロは神から頂いた恵みによって据えたと言う。パウロは自分の務めが神からの恵みによって出来たと語る。そして土台を据えると言うことが彼の務めであった、と語る。そうやってパウロはその土台を据えた、という。土台はすでに据えられているという。そしてその土台の上に他の人が家を建てていると言う。
土台はキリスト
パウロはその土台はイエス・キリストであると言う。そのイエス・キリストの土台以外の土台を据えることは出来ないとも語る。つまり教会の土台はイエス・キリスト以外はありえないというのだ。教会の土台は神の恵みによって据えたられたもので、パウロの能力や才能で据えたのではないということだ。パウロの考え、パウロの教えが教会の土台でもない、というのだ。イエス・キリストこそが教会の土台である、それ以外はありえないと言う。
教会はこの土台の上に建つ。教会がしっかり建つためにパウロはその土台を据えたと言う。熟練した建築家のように据えたという。
教会の務め
教会の務めは本来そのイエス・キリストの土台の上に立てられた家のようなものだ。その家がどのようなものか、つまりその教会の務めがどのようなものか、それはかの日にわかるという。かの日の火によって吟味されるという。それは裁きの日の火ということだろうか。その火によって残る仕事もあり、燃え尽きてしまう仕事もある。裁きに耐えられる務めをしたものには報酬があるということだろうか。裁きの日とはいろんな試練の時ということかもしれないと思う。しかし火に耐えられなかったとしても、そのものは火の中をくぐり抜けて来た者のように救われると言う。試練の中で私たちが造り上げてきたものが全部焼け落ちてしまうこともあるのかもしれない。しかし全部焼け落ちて損害を受けたとしても、イエスという土台の上にさえいれば救われるということなんだろう。
仕事が燃え尽きても
そんな土台をパウロは自分が据えたという。その土台はもう据えられているのだ。その土台の上にあなたたちはいる、ということだ。その上に建てる仕事が燃え尽きてしまうかもしれない、しかし火の中をくぐりぬけてきた者のように救われる、そんな土台をパウロは据えたと言う。そんな土台の上にあなたたちはいるのだ、と言う。それ以外の土台を据えることは出来ないのだ。十字架のイエスの上に立っている。そこを離れて教会が立つならば、たとえ表面的には栄えた教会でもそれでは何の意味も無い。
あなたがたは神の神殿である。
次に神殿の話しが出てくる。あなたたち自身が神殿なのだとパウロは言う。神は遠く離れているのではない。あなたたちの中におられると言うのだ。
実はなぜ急に神殿の話しが出来たのかがよく分からない。
土台はイエス、十字架のイエスということだろう。その上に建てるものとは教会の働きということのようだ。そして神殿。あなたたちが神殿。神の霊が住んでいる神殿。壊す者がいれば神に滅ばされる、そんな神殿だという。
でもさっきの土台とどういう関係があるのかないのかよく分からない。神は誰かがつくりあげたものの中に住むのではないということなのか。神の霊は私たちが作った教会の中に住むのではなくて私たち自身の中に住むということなのかもしれない。教会に来て初めて神に会えるのではなく、もうすでに私たちの中におられるということなんだろう。そんなこと言われるなんて勿体ない、ありがたいことだ。
足を地につけて
兎に角、私たちも自分の能力、才能の上に立つのではなく、ただイエスの上に、十字架の上に立つ。
神が私を憐れみ愛して下さった。私たちの罪をイエスの十字架によって赦して下さった。ただそこの上に立つ。私たちの教会もそこに立っている。そしてそこに立ち続ける。そのことを忘れずにいたい。
つい横を見てしまう。横の人、横の教会などを。他の教会がこうしているから私たちもしなければ、と思ったりする。あるいはよその教会と比較して自分たちの教会は駄目だなあなんて思ったりすることもある。それはイエスの上に立つのではなく、よその教会の上に立つことになるような気がする。そんなことしたらそれこそ不安定になってしまうだろう。
横を見るよりも足下を見ていこう。土台を見ていこう。土台であるイエスをしっかり見てしっかりそこに立っていこう。背伸びせず、変に飛び跳ねないでしっかり土台に踏ん張っていこう。