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礼拝メッセージより
「反省か祝福か」 2009年12月13日
聖書:使徒言行録 18章24節-19章10節
プリスキラとアキラ
使徒言行録18章によると、パウロはアテネからコリントへ向かっている。そこでアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。この夫婦はクラウディウスという皇帝が全ユダヤ人をローマから退去させるという命令が出たためにコリントに来ていた。彼らの仕事ははパウロと同じテント造りだったので、パウロは彼らの家に住み込んで一緒に仕事をした、なんてことも書かれている。
パウロは1年半の間コリントにいて、その後プリスキラとアキラ夫婦と共にエフェソへ向かった。そしてプリスキラ、アキラ夫婦はそのままエフェソに残して、パウロはエルサレムを経由してアンティオキアへ帰って行った。そこまでを第2回宣教旅行と言うそうだ。
そしてパウロはしばらくアンティオキアで過ごした後、18章23節に「パウロはしばらくここで過ごした後、また旅に出て、ガラテヤやフリギアの地方を次々に巡回し、すべての弟子たちを力づけた。」と書いてあるように再び旅に出る。それを第3回伝道旅行と言うそうだ。
アポロ
そのパウロがエフェソを後にしてからのようだが、アポロというアレキサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家がエフェソに来た。アレキサンドリアは当時の学問の中心地だったそうだ。ユダヤ人は小さい頃から聖書を勉強しているそうなので誰もが聖書に詳しいそうだが、ことさら聖書に詳しいと書かれているということは余程よく知っている、学者のような人だったのだろう。しかも雄弁家だった。アポロは主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り正確に教えていたが、ヨハネのバプテスマしか知らなかったと書かれている。
これってどういうことなのかよく分からないけれど、聖書教育には、彼はイエスの地上での言行をユダヤ教の完成として説き、その完成にあずかるためのヨハネのバプテスマを勧めていたと推察されます、と書かれている。
これを読んでもよく分からないけれど、イエスが旧約聖書の律法の完成者という風に見ていて、律法を守るお手本がイエスであるというように見ていたのかなと思う。
そのアポロの話を聞いたプリスキラとアキラは、アポロを招いて、もっと正確に神の道を説明した。
プリスキラはアキラの妻であり、妻の名前が先に書かれているということはプリスキラの方が活動的で、アポロにも積極的に教えたというなんではないかと思う。アキラはテント造りの職人でありプリスキラはその妻である。そのプリスキラとアキラが、学問の中心地から来た聖書をよく知っている学者のようなアポロに、正確に神の道を説明した、と言うのだ。
どうやらアポロもプリスキラとアキラの話しをしっかりと聞いたようだ。下手な学者は人の話しを聞かずに自分の言いたいことばかり言う人もいるけれど、アポロは普通の職人夫婦の話をちゃんと聞く度量があったということなんだろう。
その後アポロはアカイア州、コリントがある所、に渡り、聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せた、と書かれている。
アポロがコリントにいた時、パウロが第3回宣教旅行で再びエフェソにやってきた。そして弟子たちに、信仰に入った時聖霊を受けましたか、と聞いたところ聖霊があるかどうか、聞いたこともありませんと答えた。それなら、どんなバプテスマを受けたのですか、と言うと、ヨハネのバプテスマですと言った。そこでパウロはヨハネはイエスを信じるようにということで悔い改めのバプテスマを授けたのだから、イエスを信じてイエスの名によるバプテスマを受けるように、と言ったのだろう。そこでイエスの名によるバプテスマを受けてパウロが彼らの上に手を置くと聖霊が降り異言を話したり預言したりした、と書かれている。
プリスキラとアキラがアポロに説明した正確な神の道、というのもイエスの名によるバプテスマということだったのだろう。
反省、祝福
ある牧師が面白いことを書いていた。
ヨハネのバプテスマというのは悔い改めのバプテスマと言われているけれども、ある牧師は、それは要するに悔い改めて反省して暗くなる、そんなことだった。一方イエスのバプテスマとは、救い、祝福のバプテスマだと言うのだ。
ヨハネのバプテスマは、私はこんなに悪い人間です、それを反省してなんとか少しでも悪いところをなくしていきたいと思います、というようなことのようだ。それはそれでとても偉いことだと思う。
でもイエスの名によるバプテスマはどうもそれとはだいぶ違う。聖書教育にも書いてあったけれど、パウロはローマの信徒への手紙6:4でこんなことを書いている。「わたしたちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって使者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」
イエスの名によるバプテスマとは、ただ自分の過ちを悔いて、自分自身を打ち叩いて軌道修正して神について行く、というのではなく、自分の過ちや罪を持った自分は一度死に、そこで全部精算されて、全部赦されて、全く新しい命として神にもう一度生まれさせてもらうことなんだろう。新しい命をもらうということなんだろう。
ヨハネのバプテスマは自分の力で自分を変えていこうとするけれども、イエスの名によるバプテスマはただ神から受けるということのようだ。
聖霊もまた受けるものなのだ。
僕は自分のだらしなさやいやらしさ、失敗や挫折、そんなダメな所にばかり目が向いている。あの時ああすればよかった、こうしとけばよかった、なんであんなことしたんだろう、なんてことをくよくよと考えることが多い。そうやって反省はよくするけれど、でもそこから改めてよくなる、変わっていくなんてことはあまりない。自分で自分を変えようと思っても本当に難しい。
でも神は私たちに新しい命を与えてくれている、過去の自分は死んで新しく生まれさせてくれる。毎日毎日新しく生まれているということかもしれない。
神は新しく生きなさい、過去に引き摺られて、過去に縛られて生きるのではなく、新しく生きなさい、今日を新しい命として生きなさい、そう言われているような気がする。過去は全て私が精算している、過ちも罪も全て赦す、だから新しい命を受けなさい、新しい命をいきなさい、そう言われているのではないか。
その神からの贈り物、神の祝福を受け取る、それがイエスの名によるバプテスマなのだろう。私たちはそれを感謝して喜んで生きたいと思う。