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礼拝メッセージより
「神の中に存在する」 2009年12月6日
聖書:使徒言行録 17章16-34節
アテネ
パウロがアテネに行った時の話。アテネにはおびただしい偶像があった。つまり神と言われているもの。神の名の付いたものがいっぱいあった。偶像とは実は神ではない、ということで、もちろんそれはパウロから見ての話で、アテネの人たちは神だと思っていたはずだ。
今の日本の状況と似ているところがあるのかもしれない。八百万の神がいて、ということをよく聞く。神は至る所にいる、と思っているというか、そう言われている。一体神とは何なのか、神とはどういうものなのか、神という同じ言葉を使っているけれど、何を神と言っているかが問題ではある。アテネの人が「知られない神」まで拝んでいたと言うことだが、何で知られない神まで拝まないといけないのか。そこらあたりが日本とよく似ているように思う。
神
もし神が聖書に言うとおり、天も地を創ったというような神ならば、この神以外に神は存在しようもなく、ただその一つの神を拝んでいれば、信じていればいいわけで、ほかにどんな神がいるのか、なんてことは心配する必要はないわけだ。しかし、神が唯一絶対と言うものでないならば、つまり神というものがいっぱいいて、たまたま今自分が信じている神がその神々の中のひとつであれば、他の神のことも気になってくる。つぎからつぎから神が現れてくると大変。あそこの神、ここの神と拝むのも大変。縁結びの神、安産の神、学業の神、・・・・。
その神も、ただ自分に何かをしてくれるというだけの神ならば、ひとつやふたつは忘れていても対して影響はない。こっちの神を拝むとこんないいことがあり、あっちの神にお参りするとこんなことをしてくれる、というように神が何か自分の願望を叶えてくれる存在であるならば、拝まない神があったとしても少しお恵みが少なくなるだけだから別に大した支障もない。
でも、その神が人間に悪影響を及ぼす神だとすれば、つまり拝んでいないと悪いことをする、なだめておかないと何をしでかすか分からない、なんていうものだとすれば、ひとつとしておろそかには出来ない。拝まないで忘れてしまっている神がいたりすると大変だ。それこそ、よくわからんでも、何も知らんでも、とりあえずは拝んでおかないといけない。「知られざる神」というものがそういうことから登場してくるのではないか。
というわけで、実際のところ神はどのようなものなのか、そもそも神はいるのかどうか。そこらへんのところが大問題なわけだ。神はいるとかいないとかいうことはとても難しい。いるなら証拠を見せてみろといわれてみてもその証拠を見せるということが大変難しい。しかし、では神はいないという証拠を見せろといわれると、もっと大変なことになる。結局のところよくわからんというのが一番無難な答えになる。
信じる
多くの日本人は無宗教というか、神を信じていると自覚している人は少数のようだ。神を信じている、ということをいうこともはばかられるような雰囲気があるように思う。日曜日は教会に行っている、なんていうと面白がられて、こいつ教会なんかにいってるんだってよ、とか言われて口笛でも吹かれそうな雰囲気だ。
時々変な宗教が現れるとテレビでも話題になることがある。オウム真理教が事件を起こした時にはテレビでも毎日のように騒いでいた。いわゆる知識人といわれるような人たちがよく出てきていたが、そのほとんどが神を信じないとか、宗教は信じないという人のようだった。
ある時討論をする番組の中で宗教の関係の話しをしていたときに、ある外国人が「神を信じていないなんてのは人間ではないようだ」というようなことを言っていた。
確かに日常生活を送っていく上では神なんてものとは全く関係なく過ごすことが出来るような気もする。別に神さま神さまと言わなくても大した支障もないのかもしれない。
じゃ、何で教会では神だの、聖書だの、キリストだのといつまでも言っているのか、神を信じると言うことは何なのか、どういうことなんだろうか、そんなことを常々考えている。だいたい牧師なんだからそんなことは知っていて当たり前かもしれないが、やっぱりいつも考えている。
どうして神を信じるのか、と聞かれることがある。なんのために神を信じるのかと。なんのために信じるのかと言われると難しい。困ってしまう。神だから信じるんだ、と言ってごまかす。しかし結局はそういうことなんだと思う。なんのために、と言うことはないような気がする。それが神だから信じている。
この信じているという言葉に引っかかっている。信じているというと、自分が何かを一所懸命に握りしめている、すがりついているようなイメージがあるけれど、でもそういうのとはちょっと違うような気がする。信じているというのは、神がいると思っているというか、神がいることを分かっている、と言って方がいいような気がする。
イエスは神と人間の関係を父と子どもの関係に譬えたことがあるが、つまり子どもが自分の親を親だと思う気持ち、それが人間が神を信じる気持ちに近いのではないかと思う。親に対して、子どもがことさらこの人はわたしの親だと信じているだ、なんてことはない。
見えない神
今日の聖書の中で、パウロが、「神は天地を造った方だ、人間も神が造ったのだ、だから人間が造った宮に住んだりしない」ということを言っている。そして捜せば見つけられるようになっている、神はそのようにしているんだ、と言っている。どうしてそうなのかと言うと、神は遠くにいるんじゃなくて、私たちが神のうちに生き、動き、存在しているからだ、と言っている。
パウロはガラテヤの信徒への手紙に「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤの信徒への手紙2:20)と書いている。一方では人間が神のうちに生き、片方では神が人間のうちに生きていると言っている。全くおもしろい。私たちが神の中にいて、その私たちの中にも神はおられるということなのだろう。
神がいるかどうかよく分からないというのは、私たちが神の中にいるから、あるいは神が私たちの中にいるからと言うことになる。神が私たちとは離れたところにいるなら、距離があるなら、そこにいるとかいないとか言うこともたやすい。でも神の中に私たちがいる、と言うことは、なかなか分かりにくい。ここが神の中なんだと言われてもなかなか分かりづらい。産まれる前の子どもに向かって、おまえはお母さんのお腹の中にいるんだぞと言っても、それを理解するのは難しいだろうと思うけれど、それと似ているような気がする。
ということは神がいるのかいないのか、なかなか分からないと言うことは、私たちが神の中にいるからだと思う。そういう神だから、神はひとつしかあり得ないということにもなる。そうすると他の神がいたらどうしようという心配もなくなる。何とか神にこっちを向いてもらおうとする必要もない。神から離れないように必死にしがみついている必要もない。その中に生きているのだから離れようもない。
だからこの唯一絶対の神がいるからこそ自分たちがここにいる。神なしでは僕らもない、存在しないということだ。外国の人が言うように、神を信じないなんてのは人間ではないと言うことになる。
だから神を信じると言うことは何も特別のことをしているのではなくて、それが人間にとってごく当たり前のことなんではないかと思う。そうするのが人間としての生き方なんだろうと思う。
大事
そこで気になるのが、ではこの神が私たちのことをどう思っているか、どうみているかと言うことだ。聖書によれば、神は私たちを愛していると言っている。神は私たちを大事に大事に思っている。一人ひとりを、それぞれにかけがえのないものとしてみている、認めているということ。
オウムの関係のテレビのことを話したが、割とよく見た。ああいうのを見ていると、じゃ俺たちはどうなのか、なんてことを考えてしまっていた。向こうは悪でこっちは善だ、向こうは偽物でこっちは本物だ、なんて簡単に言えるのかどうかなんて考えたりしていた。
その中である人が、あの人たちは結局認められていなかったんじゃないか、とかいうことを言っていた。社会から、他のものから認められていなかったんじゃないかというようなことだったと思う。認められるということがすごく大事なことだと思う。認められるているということで安心することが出来る。そこから生きる気力もでてくるように思う。世の中がだれも自分のことを認めれくれていない、と思って生きているのはとてつもなくつらいことだろう。自分が生きていても死んでいても、ここにいてもいなくても関係ない、どうでもいいと思っているとすればとても悲しいことだ。こんな不安なことはない。こんな不安定なことはない。
その話を聞きながら、神は認めているのに、なんてことを思っていた。神が認めているということを知っているということはなんと幸せなことかと思った。自分がここに生きていることを認めている、おまえはおまえでいいんだと言ってくれている、私たちを造った、なんもかも造った、その神がわたしのことを認めている。この神がわたしのことを大事に思っている。そのことを知っている、信じているということはなんと幸いなことだろうと思う。