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礼拝メッセージより
「回心」 2009年11月8日
聖書:使徒言行録 9章1-22節
信念
サウロはユダヤ名、パウロはローマ名。律法に熱心な、熱血の男、サウロ。
サウロは、ヘレニズム文化の栄えたキリキアのタルソという都市で生まれ育ったディアスポラ(離散)のユダヤ人だった。そして彼は、ローマの市民権を持っていた(16・37)。そこで彼は、自分を専らローマ名で呼んでいた。しかし一方、彼はイスラエルの民としての誇りを持ち(フィリピ3・5)、パリサイ派の厳格な教育を受けた。そして律法には落ち度のない者だった(フィリピ3・6)。
その頃、イエスという男を信奉し、律法を軽視する集団が広まっていたので、律法に熱心なサウロにとっては、許しておけなかった。「主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き」なんてあるように、サウロは、キリスト教徒迫害を、上の人から命じられてしたのではなく、自らの熱心から、自らの信念から進んでしていたようだ。
召し
そんなサウロにイエスが現れた。そして彼を自分のことを伝えるための器だ、なんてことを言う。
突然の召しだ。戦時中を舞台にするドラマにはよく、召集令状が届いて突然軍隊に行くことになるという話しが出てくるが、それと似ている。サウロにとっては全く予期しない出来事だったように見える。そしてそれは全く理解できない召集という気もする。イエスは自分を、自分を信じる民を迫害している者を、自分を伝える者として召す。
どうしてそんな者を神は選ぶのか。なんとも理解しがたいことに思える。何もそんな奴にさせなくてもいいじゃないか。パウロの何がどうだから選ばれたのかはわからないが、とにかくイエス自身がサウロを選んだということだ。
この時にどんなことが起こったのかよくわからない。サウロに同行していた者は声は聞こえても姿は見えなかった、と書かれている。サウロ自身もその後目が見えなくなってしまっている。
天からの光に照らされるというのもすごい出来事だが、サウロの心の中に強烈な光が射し込んだようだ。自分が、こいつは偽物だ偽キリストだと思って、そう信じて迫害していたイエスが実は本当のキリストだったとわかったのだから。疑いようの無い仕方でそのことを知らされてしまったのだ。
ということは今までやってきたことがとんでもない間違いであったということを突きつけられたということだ。おまえらは間違っている、そんなことを続けることは許さない、続けるなら処刑する、といっていた自分の方が間違っていたと知らされたのだ。
そこに人生を掛けていたであろうサウロにとっては、人生を根底から建て直さねばならないような事態だ。三日間飲み食いしなかった、とある。三日間必死にいろいろなことを考えたに違いない。今までの事、これからどうするのか、ものすごい集中力で考えたことだろう。
アナニア
アナニアはそんなサウロの所へ行けという命令を受ける。彼も困ったことだろう。サウロのところへ行って祈ってやれなんて言われて。実際、あいつはとんでもない奴ですよ、と答えている。でも彼はサウロのところへ出かけていく。
実はこの人こそが偉いのかもしれない。神がその人を選んだのだ、と言われたことに対して忠実に従っている。自分たちの命を狙っている者の所へ自分から出かけていくわけだ。へたをすると捕まって殺されるかもしれないのに。
神が選んだ、神が立てた、ということだけでその相手を大事にするなんてことはなかなかできない。神に立てられていると言われても、あの人はここがだめだ、あそこがだめだ、何もしてくれない、なんて思う。そんな目で見ることが多い。神が選んだということよりも、その人の資質とか人間性の方に目を向けることが多い。そしてこの人は神に選ばれるべき人間ではない、と決めつけてしまうことが多いような気がする。
アナニアもサウロがとても神に選ばれた人間とは思えなかったようだ。けれどもアナニアは、どうしてあんな奴が、という思いを持ちつつ、神がサウロの所へ行けと言われた言葉に従った。自分の知っているサウロの人間性とか資質とか経歴とかいうようなものよりも、神の命令、神の選びを優先したということだろう。
信念
サウロは自分の信仰、信念に従ってキリスト教を迫害していた。そして、この時から今度は自分の信念に従ってキリストを伝えていった。
自分の信じるところをまっしぐら、というのもなかなかいいんじゃないのかな。間違っていたと気づいたら修正していく姿勢は見習わないといけないような気がする。
サウロはただ単に命令されたから教会を迫害していた訳ではなく、自分の信念で迫害していた、だからこそ今度は自分の信念でキリストを伝えることとなったのだろう。サウロはすぐにあちこちの会堂で、この人こそ神の子であると宣べ伝え、あいつはイエスの名を呼び求める者を捕まえてた奴じゃないか、と言われると余計に力を得て話しをした、なんてことも書かれている。そういう人物だったからこそイエスは選んだのだろうか。もちろんその理由ははっきりしないが、でも信念の人物だったからこそ、その後正反対の立場になってからもしっかりとその道を貫くことができたのだろうと思う。
人に言われたから仕方なくとか、人からとやかく言われないために何かをすることがよくある。周りにいいかっこうを見せるために、本当はしたくないのにするようなところがある。そういう時はまわりの者がどんなふうにしているかすごく気になる。そういうことを繰り返しやっているといつまでたっても自分でこうだと思ってするということができなくなる。
どこかの教会員が牧師に「感謝して献金することができなくなった」と言ったそうだ。そういう気持ちを正直に言う人も偉い人だと思うが、牧師は「感謝できないなら、できるようになるまでするな」と答えた。「でも牧師先生の生活が困ると思って」と言うので、牧師は「牧師は神さまに養ってもらっているんだ」と言ったそうだ。ちょっと勇気が要ったらしいが。実際いやいやながら献金するよりも、いやな時はしない方が後々感謝できるような気がする。
だから何事も信念をもって心で決めてしていけばいいような気がする。したくないときにはしない、という方がいいのかもしれない。
その信念が間違っている時は修正すればいいんだから。自分が信念を持って自分で決めてやっているなら修正も容易なんではないか。
回心
人間は間違う生き物なのだ。私たちは自分が間違っていないと思いたい。そして自分の間違いを認めず、間違っていなかったと思うことで却って間違いにしがみつくような事もある。まずいかなと思いつつ、誰かからおかしいと言われると意地になって間違ってないと主張するなんてこともある。
しかしそもそも人は間違う生き物なのだ。だから間違わないことではなく、間違いを正すことが大事なのだ。間違っていると分かればすぐに修正することが大事なのだ。これは間違っている、という自分の信念に素直に従っていくことが大事なのだろう。
回心ということばは心の向きを変えるということだそうだ。心を綺麗に改めるのではなく、戒めるのでもなく、神の方を向いて、神の声に聞いていく、そんな神の方へ向きを変えること、それが回心なのだ。
サウロは三日間何をどう考えたのだろうか。きっと俺の人生は一体何だったのか、今までしてきたことは何だったのかと考えたのだろう。それまで間違っていたということを受け止めることは相当に大変なことだったに違いないと思う。正しい人間を捕まえて痛めつけてきた、ひどい目に遭わせ処刑してきた。そんな間違いを犯してきた。相当苦しかっただろうと思う。
けれども彼はそこにとどまることはしないで次の一歩を踏み出した。向きを変えて、向きを修正して歩き出した。サウロはこの時から新しい出発を始めた。苦しい思いや後悔する気持ちを持ちつつ、けれども光に向かって歩き始めた。
私たちもイエスの光に照らされて、自分の信じる道を、イエスの導く道をまっすぐに進んでいきたい。神の声を聞きつつ、間違った時には修正しつつ、神に従っていきたい。