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礼拝メッセージより
「高官のバプテスマ」 2009年11月1日
聖書:使徒言行録 8章26-40節
迫害
当初弟子たちは自分たちがユダヤ教徒決別する、という意識を持っていた訳ではなかったようだ。彼らは神殿に出入りしていて、神殿で話しをしている。しかし弟子の中にも、ギリシャ語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人の間には神殿とか食事に対しての考え方の違いがあったらしい。そしてギリシャ語を話すグループのリーダーがステファノやフィリピだったようだ。
ステファノは6章9節にあるように、「解放された奴隷の会堂」の人たちと議論し、逮捕され殺されてしまう。
その後、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆ユダヤとサマリアの地方に散っていった、ということが8章1節に書かれている。
「その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。」
迫害されてエルサレムから逃げていった。けれど使徒たちはエルサレムに残っている。どうやら迫害は、神殿や律法に対して比較的自由な考えを持っていたギリシャ語を話すユダヤ人に対する迫害だったようだ。
8章4節以下では、「さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。」と書かれている。迫害されて逃げて行く途中にキリストを伝えながら逃げていたらしい。
エチオピアの高官
そんな時に、主の天使がフィリポに「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と行った。そこにはエチオピアの女王カンダケの高官がいて、エルサレムに礼拝に来て帰る途中だった。カンダケというのは女王の名前ではなくてエチオピアの女王のことをカンダケというそうだ。場所は今のスーダンのあたりだったのではないかと考えられていて、その近くには何世紀も前からユダヤ人の大きな植民都市が出来ていて、そういうことからこの高官もユダヤ教を信仰していたと考えられるようだ。
この高官は女王の全財産の管理をしていた宦官だった。宦官なので去勢されていた。ユダヤ教は割礼をすることが神との契約のしるしだった。アブラハムの時代から続いているしきたりのようで、包皮を部分を切り取る割礼を受けることでユダヤ人となる、神の民の一員となるという風に考えられていたようだ。しかし去勢されているということは割礼を受けることができない、そのしるしを持っていないということになる。そういうこともあるからだろうけれど、申命記23章2節には「睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない。」と書かれている。
しかしイザヤ書56章3節には「主のもとに集って来た異邦人は言うな/主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな/見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。 」と書かれていて、そこに宦官に対する慰めがあったようだ。
そんなことからこの宦官はイザヤ書を読んでいたのかもしれない。そしてフィリポが通りかかった時に呼んでいたのが53章だった。 イザヤ書53章は直接イエスのことを語っているという箇所ではないけれども、当時からイエスのことを預言しているという解釈があったそうだ。イザヤがイエスのことを預言しようとして語っているというわけではないと思うけれども、苦難の僕というのはまさにイエスのことを告げているかのようで、イエスのことを説明するには丁度いい箇所だったのだろう。
そこでフィリポは、聖書のこの箇所から説きおこして、イエスについて福音を告げた。そして水のあるところに来たのでバプテスマを授けたという話しだ。
出会い
全く不思議な出会いである。
主の天使によって、ガザへ下りる道に行け、と言われたことでそこへ向かった。そして、追いかけてあの馬車と一緒に行け、と霊に言われて近づいていった、という風に全部神によって示されて出会ったわけだ。ついでに、バプテスマの後、水から上がると主の霊がフィリポを連れ去ったと書かれているように、最初から最後まで神によって仕組まれた、というか導かれた出来事だったということを言おうとしているのだろう。
そこでイエスのことを伝えてすぐにバプテスマを受けようという話しになるなんて、ちょっとできすぎた話しという気もするけれども、そこですぐにバプテスマを授けるというのもなかなか面白い。今の教会じゃそんなことしないというかできないというか。
この高官は喜びにあふれて旅を続けたという。
教会では伝道しましょう、と言う。何で伝道するんだろうかと思う。教会としては信徒が増えれば献金も増えて、なんて牧師は考えるけれど、確かにそうなんだけど、でもそうやって教会をうまく運営するために伝道するわけではないはずだよなと思う。
やっぱり、伝える相手が喜びに満ちるため、相手が喜ぶために伝道するんだよなと思う。
高官は何をそんなに喜んだのだろうか。そもそも私たちにそんな喜びはあるのだろうか。イエスのことを聞いて喜んでいるのだろうか。