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礼拝メッセージより
「イエスを見つめて」 2009年10月25日
聖書:使徒言行録 7章54節-8章3節
分裂
教会の中にもいろんなことが起きる。仲違いや分裂することもある。人が集まるところにはいろんな問題が起こる。教会もいろんな人が集まっているわけで、教会だからいつもみんな仲良く一つにまとまっている、とは限らないようだ。
使徒言行録6章には、「そのころ、弟子たちの数が増えてきて、ギリシャ語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。」なんて話しが出ている。
ギリシャ語を話すユダヤ人とは、パレスチナから離れて所で生まれてギリシャ語を話していたユダヤ人たちで、ヘブライ語を話すユダヤ人とはパレスチナ生まれのユダヤ人たちのようだ。
そんな問題が起こってきたために、教会では霊と知恵に満ちた評判の良い人を7人選ぶことになったという。この7人に食事の世話を任せて、12弟子たちは祈りと御言葉の奉仕に専念できるようにしようとしたということのようだ。説教から食事の世話から何もかもやって、苦情が出たらその処理までして、ということをしてたら大変なので、食事の世話などを担当する人を7人選んだ、という風に使徒言行録6章には書かれている。
けれどもその時選ばれた7人のうちのひとりであるステファノのことを見てみると、実際にはステファノもユダヤ人と議論をして説教までして、そのせいで彼は殺されてしまうことになる。フィリポという人もエジプトの高官に聖書から解き明かしたなんてことが後で出てくる。そしてこの時選ばれた7人の名前が6章5節に出てくるが、この名前は全部ギリシャ名なのだそうだ。
恐らくこの7人は12使徒の下で、毎日の食事の世話をする責任者ではなく、12使徒がヘブライ語を話す集会の代表者であるのに対して、ギリシャ語を話す集会の代表者がこの7人だったようだ。そしてお互いの集会は、食事のことや神殿に対する考え方などの違いがあったのではないかと思う。
怒り
そのステファノはユダヤ人と議論し、全く譲らなかったために捕らえられてしまい、ユダヤ教の最高法院に突き出されてしまう。しかしそこで彼は説教をしたということが7章に書かれている。
かれはアブラハムに始まって、ヨセフや、モーセ、ダビデ、ソロモンの話しをしたと書かれている。要するに旧約聖書、特に創世記と出エジプト記を要約したような話をしている。実際にこんな話しされたら、最高法院の人たちは黙って聞いてないだろうと思う。そんなことはおまえから聞かなくてもよく知っている、何を偉そうに話しているのか、と言い出しそうだ。
ステファノはユダヤ人たちがその時々神に逆らっていたという話しをした最後に、
7:51 かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。
7:52 いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。
7:53 天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。
そこまで言うか、というような言い方。ステファノはかなり激しい性格の人間だったのかも。これほどまでに直接的に言ったら殺されても仕方ないかもしれないと思うような言い方だ。
これを聞いていた人々は、悔い改めるのでなく、激しく怒った。図星だったので頭に来たということなのだろうか。罪を指摘された場合、人間はしばしば、それを認めて悔い改めるのでなく、自分を正当化し、非難した者に対して怒る。そしてこのステファノの話しを聞いた人たちの反応が今日読んだ聖書の箇所だ。
54節に、人々は激しく怒りステファノに向かって「歯ぎしりをした」とある。そのような激しく怒っている人々を前にしても、ステファノは平然としている。
さらに人々にとっては火に油を注ぐような言葉が続く、
7:56 「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」
人々はステファノを都の外に連れ出し、石を投げて殺した。裁判するでもなくいきなり処刑したのか。処刑というよりも殺人だ。
ステファノはこんな状況の中でもイエスを見つめていた、と言うのだ。自分を殺す人たちではなくイエスを見ていた。
片やステファノだけを見つめ怒りの炎を燃やす群衆、片や天を見上げてイエスを見ているステファノ。ぶつかり合わない視線。
サウロ
ここでサウロがさりげなく登場する。処刑人たちの衣類の番をしている。しかし後にこのサウロが異邦人に伝道するという大きな働きをする。
競争
ステファノ殉教の発端は人の妬みだった。
6:8 さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。
6:9 ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。
6:10 しかし、彼が知恵と"霊"とによって語るので、歯が立たなかった。
6:11 そこで、彼らは人々を唆して、「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。
6:12 また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。
自分が議論に負けたということで相手を力ずくでやっつけてしまう。
自分と違う意見の人間がいることが許せない、面倒なやつはのけ者にしてしまえということのようだ。いざとなればどんな手を使ってでも排除しようとする。
淡々
しかしステファノはその暴力的な仕打ちに対して何の抵抗もしていないようだ。淡々と相手のするままにしているようだ。まるでイエスのように。
ステファノにとって議論に勝つとか負けるとかはさほど対した問題ではないようだ。そしてまた人からどのような評価をされるかということも気にしていないようだ。ただ自分の信じるところを淡々と述べているだけ。それを理解しない相手を責めるわけでもない。
自分が真理だと思って語っていることを相手が分かってくれないとき、普通なら相手が悪いと思うだろう。まして裁判のような席で自分の言うことを誰も信用してくれないとなるとどうなるだろうか。
どうしてだ、どうして分からないんだ、と叫びそうだ。
どうしてステファノは淡々としていられたのか。私はそんな立派なことはできない、とすぐに思ってしまう。
彼はイエスを見上げていた。そこに彼の力の源があったのではないかと思う。私たちはイエスを見ることをしないで、周りの状況にばかり目を奪われることが多い。周りにいる人たち、うまくいかない状況、不安な心配な事柄、そんなものに私たちは目を奪われてしまいがちだ。そしていつの間にかイエスを神を見ることをすっかり忘れてしまいがちだ。
教会の中でも、礼拝の人数が少ないとか、会計報告はまた赤字だとか、そんなことに目を奪われがちだ。あるいはそれぞれの家の中でもいろんな問題があって、なかなかうまくいかないことがあると、心の重荷となってそのことばかりを考えて、悲観して落ち込んでいくなんてことになりがちだ。確かに落ち込む種は尽きないし、ついつい下を向きがちになる。でもちょっと上を見てみなよ、と言われているような気がする。ちょっと神を、イエスを見上げてごらんよと言われているような気がする。
神を見つついろんな問題を見ていく、イエスを見つつ心配な事柄を見ていく、そうしたら何かが変わってくるような気がする。張りつめた心がちょっと緩んで泣けてくるかもしれない。ちょっと勇気が湧いてくるかもしれない。ちょっと希望が湧いてくるかもしれない。ちょっと立ち向かう力が出てくるかもしれない。
とにかくどんなに苦しい時でも大変なときでも、イエスを見上げてごらん、イエスもあなたを見つめているから、そう言われているような気がしてきた。