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礼拝メッセージより
「語り続ける」 2009年10月18日
聖書:使徒言行録 5章17-39節前半
大胆
ペンテコステに聖霊を受けて大胆にイエスのことを語り始めた弟子たちに対して、民衆は好意を持っていたようだ。
3章を見ると、ペトロとヨハネが神殿の境内で足の不自由な男をいやし、その時にも民衆に向かって、イエスはあなたがたを悪から離れさせ、祝福するために神から遣わされた救い主メシアである、罪が赦されるように悔い改めて立ち返りなさい、と説教した。
その様子を見た祭司たちやサドカイ派の人たちは、弟子たちがイエスが死者の中から復活したということを語っていることで、そしてきっと民衆も熱心に聞いていたのだろう、そんな様子を見てイライラしてペトロとヨハネを捕まえて牢に入れたなんてことが4章に書かれている。
サドカイ派というのはユダヤ教の一派で、復活はないと主張していたグループだそうだ。ユダヤ教の中には福音書にも出てくるファリサイ派というグループもあったようだが、ファリサイ派は復活はあると主張していたそうだ。そのサドカイ派は、弟子たちが復活を語っていることと、それを民衆が熱心に聞いていることにどうも我慢ならなかったらしい。それだけじゃなくて、弟子たちが、あんたたちが殺したイエスを神は復活させたんだ、と言っていることで、余計に頭に来たらしい。
そこでペトロとヨハネを自分たちのところに呼びつけて脅かして止めさせようとした。しかし弟子たちは全くひるむことなく、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えて下さい。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」なんてことを言っている。祭司やサドカイ派は民衆を恐れて、弟子たちを脅す以上のことはできなかったらしい。
再び
そして5章17節以下のところには再び同じような話しが出てくる。ここでも大祭司と仲間のサドカイ派の人たちはねたみに燃えて、今度は使徒たちみんなを捕まえて公の牢屋に入れてしまう。
しかし夜中に天使が彼らを助け出して、この命の言葉を民衆に告げなさい、と言ったという。天使というと背中に羽根の生えているようなイメージがあるけれど、物の本によると、原語ではただの「使い」という言葉なのだそうだ。なので、羽根の生えていない使いが彼らを助けたということなのかもしれない。
大祭司と仲間の人たちは最高法院を招集し、最高法院の名前で弟子たちを止めさせようとしたのだろう。弟子たちは牢屋から助け出されたけれども、逃げも隠れもしないで、神殿で民衆に教えていたので、最高法院にひっぱっていかれた。そこで大祭司は、イエスのことを教えるなと言ってただろう、と脅したようだが、弟子たちは、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。あなたたちが殺したイエスを神は復活させました」とまたもやそこで説教したわけだ。火に油を注ぐようなことだったので、最高法院の人たちはめちゃ怒って弟子たちを殺そうと考えた、なんて書かれている。
そこに民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が登場する。この人は、ファリサイ派だからというのもあるのだろうか、こんな奴らは殺してやると言って怒りまくっているサドカイ派とは少し距離をおいているみたいで、少しは冷静に状況を見ているようだ。
以前にもテウダとかユダとか、民衆を率いて反乱を起こすものがいたけれど、やがていなくなってしまった。人間から出たものはやがて自滅してなくなってしまうのだから放っておけばいい。もし弟子たちが神から出たものだとしたら、自分たちは滅ぼすことはできない。それどころか神に敵対することとなってしまう、なんて話しをした。それで弟子たちは殺すという話しはなくなったようで、鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じて釈放したと書かれている。神に逆らうかもしれない、と言われておきながらそれでも鞭で打つということは、よっぽど我慢ならなかったということなんだろう。
変化
弟子たちってイエスが十字架に付けられる時にはみんな逃げてしまった人たちだった。ペトロもイエスのことを3回知らないと言ったこともあった。そしてしばらくはみんなで見つからないように隠れていた。
しかしこの変わりようはなんなんだろうという気がする。びくびくしていたのに突然大胆になっているようだ。実際一日で変わったのか、それとも少しずつ変わっていったのかはよく分からない。けれどこの変わり様はすごいなと思う。聖霊の働きとは実はこういうことなのかもしれない。きっとそうなのだろう。多分そんな力があるのだろう。聖霊の力を受けることで、私たちが思う以上のことが起こり得るのだろう。
なんとなく知識としてはそれは分かっている。聖霊の力とは神の力なのだから、どんなことだって起こりうる、ということは理屈としては分かっている。でも案外それが自分に起こるとはあまり思っていないような気がする。聖霊には力があったとしても、自分は変わりはしないと思っているのかもしれないと思う。私はこんなにダメな人間なんですと言いつつ、でもそれを変えて欲しいと祈ることも願うこともない、そしてずっと自分自身に文句を言いつづけているのかもしれないと思う。
神を信じていない、神の力を、聖霊を一番信じていないのは自分自身なのかもしれないと思う。
弟子たちは聖霊の力によって変えられて大胆に語っていった。彼らは語らないといけないと言われたから語ったのではないだろうと思う。語らないと誰かから怒られるから勇気を振り絞って語ったのではないだろう。彼らは語りたくなった、語らないではいられなくなった、だから語ったのだろう。
聖霊にはそんな力がある。弟子たちを力づける力がある。私たちもそんな聖霊の力を、神の力を受けるように、神はそう言われているのではないか。