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礼拝メッセージより
「恵みと憐れみ」 2009年9月27日
聖書:ヨナ書 4章1-11節
ニネベ
ヨナは魚から吐き出されたあと、今度はニネベに向かった。そして神の命令通りにニネベの民に神の言葉を告げる。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」そうするとニネベの人たちは誰もが断食し、悪から離れ、不法を捨ててしまったというのだ。そして「神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。」(3:10)
ニネベの人たちが滅ぼされそうになった原因は、悪に染まり、不法を働いていたということだったのだ。しかし彼らは王から率先して「王座から立ち上がって王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、王と大臣たちの名によって布告を出し、ニネベに断食」し悪の道から離れるようにと命令を出した。家畜にまでも断食するようにと言った。そうすればあるいは神が思い直してくれて、怒りを鎮め、滅びから免れるかもしれないからそうしようというのだ。
神は彼らが悪の道から離れたのを見て、神は災いをくだすことをやめてしまった。
ヨナが最初に神の命令に背いて、ニネベとは逆方向の地の果てまで逃げてしまおうとしたこととは対照的である。ニネベの民は神の言葉を聞いてその言葉を真剣に受け止めたというのだ。自分たちは神に選ばれ愛されていると思っていたであろうイスラエルのヨナよりも、外国人、異邦人であるニネベの民の方がよっぽど素直に神の言葉を聞いている。そして自分たちの間違いを素直に認めて悪から離れた。まったく素直な信仰深い人たちだ。
不満
ヨナは神がニネベに災いを下すことをやめてしまったことが気に入らない。ニネベの人たちが素直に悔い改めてしまって、その結果神がニネベの人たちを赦すことが気に入らない。
自分の告げた災いの言葉が現実しなかったことが気に入らなかったのか。つまり未来の予言をしたそのことがらが実際に起きなかったわけで、自分が語ったことが実現しないうそつき予言者となったことが気に入らないのか。
それとも神がそんなにまでしてニネベの人たちのことを顧みていることが気に入らないのか。ヨナにとってはそっちのほうがより気に入らなかったのではないか。イスラエル人でない異邦人であるニネベの人々を、それもイスラエルを苦しめていたそんな民を神が憐れんでいる、そんな民を大事にしている、あんなやつらのことを大事にするなんていったいどうしたことか、そんな思いがヨナを不満にさせたのではないか。
ヨナは主に訴えた。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」(4:2-3)
こういうのを褒め殺しと言うんだろうか。
ヨナは神のことを恵みと憐れみの神、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方である、と言っている。ところがそんな神であることが気に入らないというのだ。
人は誰でも自分に対してそんなふうに恵みと憐れみを持って接してくれることは喜ばしいことだろう。間違いを犯しても罪を犯しても忍耐を持って接してほしいと思う。神がそんなふうにして自分を見ていて、そんなふうに接してくれるということはどれほどうれしいことだろうか。
しかしその神が、他の者に対して、まして自分の嫌いな者に対しても同じように恵みと憐れみを持って接することが気に入らないというのだ。私には恵みと憐れみの神でいてほしい、でも私の嫌いなあいつに対しては怒りと裁きの神になってほしい、そんなことを願う。自分だけを特別に大事にしてほしいということなのだろう。
とうごま
神はそこでヨナのためにとうごまを生えさせる。しかしとうごまは一夜にして枯れてしまったという。
とうごまは4mになることもあるという木で、手の形のように先が分かれている大きな葉があって、イチジクの葉に似ていが、その大きな葉で陰ができる、と説明があった。
その陰のお陰でヨナは強い日差しから守られて喜んだ。ところがそのとうごまを失うことで強い日差しに苦しみ死ぬ方がましだと言っている。どうして枯れてしまったんだ、ということだろうか。せっかく気に入っていたのにどうしてだ、ということだろうか。
神はどうしてそんなに怒るのか、とヨナをなだめる。おまえは一夜にして生じ、一夜にして滅びたとうごまのことを惜しんでいるではないか。ならば私が12万人以上いるニネベの人たちと無数にいる家畜を惜しむのは当然ではないか、という。
神の思い
ヨナがそれを聞いてどう思ったか、どう答えたかは書かれていない。多分ヨナはとうごまの事を経験することで神の思いを知ったということだろう。ヨナがとうごまを惜しむ気持ち、それが神がニネベの人たちを思う気持ちであることを知ったことだろう。
そしてこの神の言葉はヨナにだけではなく、私たちに対しても語られている言葉であろうと思う。
神は罪にまみれた、罪に沈んだ者たちのことを惜しむ気持ちで見つめているというんだ。神のことなど知らない、神の思いを知らずそれに従っていない者たちのことを惜しむというのだ。彼らが信仰深かったからではない。彼らがすぐに自分の罪を悔い、悪を改めたから惜しんでいるのではない。そうする以前から、何も始まっていない、何も変わっていないその時から、神はその者たちのことを惜しむ、大事だというのだ。
特別
私たちは自分だけが特別でありたいと望むところがあるのではないか。自分だけ特別によくして貰う時ってのは気分がいい。特別大事にしてもらうことを喜ぶところがある。誰かからプレゼントを貰って喜んでいたのに、みんなが同じように貰っているとあんまり嬉しくないと思えるような時がある。自分だけ特別大事にしてほしい、そんな気持ちがある。
神からも自分だけを特別に大事にしてほしいと思う気持ちがある。私にだけ特別の恵みを、私にだけ特別の才能を与えてほしいと思ったりする。そうしたらみんなに自慢できるのにと思う。
他の者とは違うんだ、と思うこと、自分だけ大事にされているんだ、と思うことを求めるようなところがある。教会に来ている人間は教会の外の人間よりも神に大事に見られている、となんとなく思っている。教会に来ているから外の人間とは違う特別な人間なのだと思っている。
そうやっていろんなことを誰かと比較して、自分の方が勝っているということで初めて安心する、逆に劣っていることで落ち込むということがある。そしていつもいつも競争してばかりいる。どっちが優れているか、どっちが正しいか。ヨナにとってもそんな気持ちがあったのではないか。イスラエル全体にあったのかもしれない。自分たちは特別だ、自分たちは他の民族よりも優れていると気持ちがあったのではないか。同じではいやだ、同じように大事ではいやだ、同じように愛されているではいやだ、というような気持ちがあったのではないか。
放蕩息子の兄
イエス・キリストが、放蕩息子の兄が、弟が帰ってきたとき、そして親父がそのわがままでろくでなしの弟を大事に迎えたことで怒って家に入らなかったという話をされたことがあった。
自分は自分のしたいことも我慢して親父のために働いてきたのだ。楽しみも押さえて親父と一緒に働いてきたんだ。なのにどうしてあのろくでなしの弟のことを親父はそんなに大事にするのか。どうして俺よりもあいつなのだ、そんな思いがあったのだろう。
俺の方を特別に見てくれ、俺こそ特別なのだ、特別に見て貰いたいために一生懸命に働いてきたのだ。なのにどうして何もしないあいつを大事にするのか。そんな気持ちがあったのだろう。
神の愛
ここまでしているのだから、という思いがヨナにも放蕩息子の兄にもあったのかもしれないと思う。イスラエルの人たちは一所懸命に神を見上げて神の命令を守ってきたではないか、守れないこともあったが少なくとも守ろうとしてきたではないか、なのに何もしない、神の言葉を聞いてもない聞こうともしてこなかったあのニネベの民をどうしてそんなに大事にするのか、そんな思いがヨナにはあったのではないか。
そんなふうに、私たちは何かをすること、何かをしたことの引き替えに神の愛を求めているところがある。こんなに一所懸命に聞いているんだから、こんなに一所懸命に奉仕しているんだから、こんなに一所懸命に礼拝に来ているんだから、だから神は私のことを特別に大事にしてくれるはずだ、そんな思いがあるのではないか。だから一所懸命にしている私たちの方を、教会の外の人よりも神は大事にしてくれるはず、大事に思ってくれているはずという気持ちがあるのではないか。
しかしどうもそうではないらしい。そんな気持ちでいるから、外の人のことを大事にする神が憎らしく思えてくる。それにひきかえどうして自分のことをあまり大事にしてくれないのかと思ってしまう。
しかし神の愛はそんなふうに私たちの働きの代償として、私たちがどれほど信じたかの代償として与えられるのではないらしい。なにかができるとかできないとか、何かをしたとかしないとかいうことに関係なく神は愛しているということだ。
でも神の愛は働いた時間に合わせて払われる報酬のようなものではない。働きに関係なく与えられるものなのだ。それだからこそそれは恵みなのだ。まさにヨナが言うように神は、恵みと憐れみの神なのだ。私たちの神はそんな神なのだ。
でも何だか結局は神は人が好きで好きで仕方ないような気がする。ニネベの人のことも好きで好きで、悪に対してはそのまま放っておくことはできないみたいだけれど、でも悪に染まっている時でも人のことをどうにかしたいという思い出うずうずしているかのようだ。なんとか悪から離れさせたくて仕方ない、それほど人のことが好きなんだ、と言いたいかのようだ。
私たちはそれなりに正しくしていないと神から好かれない、大事にされないと思いがちだけど、神は私たちがどんな時でも悪に染まっている時でも、好きで好きで仕方ない、大事で大事で仕方ないのだろう。好きだから、大事だから、悪から離れて正しい道を歩んで欲しい、豊かな人生を生きて欲しいと願っているのだろう。