前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「証人となる」 2009年10月4日
聖書:使徒言行録 1章3-11節
使徒言行録
使徒言行録は、ルカによる福音書の続編として、医者ルカによって書かれたものである。最初に「テオフィロさま、わたしは先に第1巻を著して」とあるが、この「第1巻」は、ルカによる福音書のことである。使徒言行録の使徒というのは、イエスの12弟子とパウロを指している。もっとも、実際に登場するのは、前半はペテロ、後半はパウロが主で、他の弟子たちはほとんど出てこない。このペテロとパウロの言った事と行ったこと、つまり、キリストの福音を各地に伝えたことの記録が使徒言行録である。口語訳では使徒行伝という名前になっている。
使徒言行録は、福音がエルサレムから異邦人世界に伝えられ、ついにその当時の中心地ローマにまで、伝えられたことを述べている。そして、そのわざの背後に聖霊が強く働いていることが強調されている。使徒言行録には、聖霊が非常に強調されている。
神の国
1:3 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。
「苦難を受けた」というのはもちろん十字架の死のことである。その後「彼らに現れ」たと言われている。そして、イエスが彼らに現れた目的は、「神の国について語る」ことであった。
弟子たちは、これまでイエスと共に生活をし、共に旅をしていたので、「神の国」のことは、イエスから直接何度も聞いていたはずである。福音書を見ると、イエスがいろいろな譬を使って「神の国」のことをしばしば語っている。しかし、復活のイエスはなおかつ彼らに神の国のことを話された。
エマオの途上でもイエスは弟子たちに語り掛けた。旧約聖書から解きおこして語った。この後ペテロや他の弟子たちも旧約聖書からイエスのことを語る。イエスは死から甦ったそんなすごい方だ、だけではなく、旧約時代から約束された救い主だ、ということを語る。つまり神は復活のときだけ力を発揮した訳ではない、いつも私たちと関わりを持ち続けている、ずっと見つめている、ということを教えようとしているようだ。
約束
1:4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。
この「約束」というのは、5節にあるように、聖霊のことである。イエスは、ここで弟子たちに、エルサレムで聖霊が与えられるのを待ちなさい、と言っている。イエスは、今天に上げられようとしている。そうなると、弟子たちは、自分の力で働かなければならない。8節を見ると、彼らの使命は、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで」イエスの証人となることである。
しかし、ゲッセマネでイエスが捕らえられた時、彼を見捨てて逃げ去った弟子たちにそのような力はなかった。そこで、イエスは彼らに聖霊を約束したのである。ただ、イエスはここで、どれくらい待つのか、その期間は言っていない。それを2、3日待つだけでいいのか、あるいは、1年も2年も待たなければならないのか。
「待つ」ということは中々忍耐のいることだ。また不安でもある。いつまで待てばいいのか、その時が分からない場合は大変である。ここで弟子たちは、イエスから聖霊が与えられるという約束はされるが、それがいつかは言わなかった。だから弟子たちは不安なのだ。それがいつかを知りたい。そこでその時をイエスに尋ねる。しかし、イエスの答えは、
「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」であった。
教えてくれてもいいのにと思う。いつまでと言ってくれたらそれまでだったら頑張れるということもあるのに、と思うけれどそれは弟子たちの知るところではないと言われている。
昇天
1:9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。
1:10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、
1:11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
イエスは昇天された。「天に上げられる」というのは、栄光の姿である。昇天というのは、最も栄誉あることで、大きな奇跡である。にもかかわらず、イエスの昇天の記事は、詳しく記されていない。天に上げられる時、華々しく描きたいと思うのが普通だろう。白馬が来るとか、大勢の天使に迎えられるとか。しかし、ルカはそういう事に余り関心がない。むしろ残された弟子に関心がある。
弟子たちはイエスが捕らえられた時、恐ろしくて逃げてしまった。しかし、復活の主に出会って、また元気になったようだ。弟子たちはイエスが共にいないと非常に不安なのだ。しかし、今再び自分たちを残して昇天してしまった。
彼らは「天を見つめた」とある。弟子たちは、イエスから目を離そうとしなかったのだ。雲に隠れてしまったのに、いつまでも見続けていたという。見えなくなったのにまだ見つめていたというのだ。
いつまでも天を見つめていた弟子たちに天使は「なぜ、天を仰いで立っているのか」と言った。いつまでも天を仰いでいてはいけないのだ。地を見つめ、自分たちのなすべき事に励まなければならないのだ。私達もただ天を見つめるだけの信仰であってはならない、自分の足下をしっかりと見つめていかなければいけない、ということなのかもしれない。
私たちはよく神の力によって自分が別物になることを期待する。立派な強い、何事にも動じない人間になることを期待する。あるいは神の力によって自分の願いが叶って欲しいと思う。どこからともなくいっぱい献金があって教会の財政が豊かになればいいなと願う。いろんな人が突然教会に一杯来るようになってほしいと願う。そんな風に天を見上げて何かいいものが落ちてこないかと待っているようなことが多いのが私たちの姿でもあるのかもしれない。
でも私たちも自分の足下をしっかりと見つめていかないといけないのだと思う。無力な情けない自分かも知れない。しかし今の自分をしっかりと見つめ、今の自分に出来ることをしていくように、と神は言われているのではないか。どこかのお金持ちがいっぱい献金してくれたらと願うよりも、自分がこつこつと献金することを考えないといけないのだろう。教会に急に人が増えることを期待するよりも、教会に来た人が安心して喜んでいられるような教会にするために自分に何が出来るかを考えないといけないのだろう。そんなことを通して神は働かれるのだと思う。
神さまは、いろんなものを天から降らすというような仕方で何かをするよりも、私たちを通して神は何かをされようとしているのではないかと思う。
聖霊
昇天したイエスは弟子たちを見捨ててしまったのではない。天から彼らを見守り、またご自分の代わりに聖霊を送ることを約束された。
弟子たちはその後キリストの証人となっていった。しかし決して自分たちの力や技量だけでキリストを伝えていったのではなく、聖霊によって力を受けたから証人となったのだ、ということを使徒言行録は伝えているようだ。
また地の果てに至るまで証人となる、と言われていたけれど、実際にはなかなか異邦人には伝えていけなかった。神から幻を見せられたりしながら、あまり乗り気ではないところを後ろから押し出されて、といった感じで異邦人のところに行った、なんてこともあったようだ。
弟子たちも聖霊が降ったからといって突然強く正しい立派な人間になったわけではなかったようだ。弱さが消えてなくなったわけでもない。でも神はそんな人間を力づけご自分の証人とされていった。弟子たちもいやいやながら神の導きだからと従ったようなところもあったようだ。でもそこで彼らは神の働きを見て、体験していったのだと思う。
神は私たちに対してもそんな証人になる、と言われているのだろう。私はあなたを支えている。今度はあなたが私の証人となるのだ。あなたが隣人を愛する者となるのだ、あなたがわたしの愛を伝えるのだ、神は私たちに対してもそう言われているのではないか。
証人
面白いことに、「証人となる」と言われているのであって、「証人になれ」とは言われていない。当然のことであって、そうなるともう既に決まっている、ということなんだろう。証人にならないなんてことはありえない、ということなんだろう。
また証人になるのであって、弁護人になるわけではない。弁護人はその人を守るために検察と対決をしないといけないわけだけれど、証人とは自分の知っていることをその通りに話せば言い訳だ。知らないことは知らない、分からないことは分からないと言ってもいいし、そうやって正直に言うことが証人にとって大事なことなんだろうと思う。キリスト教のことや教会のことを教えてくださいなんて言われると、あまり知りもしないのについつい分かったような顔をして適当なことを答えてしまうことがあるけれど、でも本当はそれはいい証人ではないということになるのだろう。
自分にとって神とは、キリストとはこういう方だ、自分にとって信じるとはこういうことだ、正直に伝えること、それが証人の務めなんだろうと思う。そして苦しい時は苦しいと言い、悲しい時は悲しいと言う、辛い時は辛いと言う、憎い時は憎いと言う、それでいいんじゃないかと思う。クリスチャンのくせに、と言われたらクリスチャンのくせにそうなんですと言う、それこそが証人なんだろうと思う。
そんなこと言って大丈夫だろうか、変な目で見られないだろうかと心配になる。でもそんな私たちを神は支えてくれている。大丈夫だ、心配するな、私はいつも共にいると言われているのだと思う。その神の支えによって生きていく、生かされていく、そのことを伝えることが証人となるということなんだろう。