前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「悔い改め」 2009年9月20日
聖書:ヨナ書 3章1-10節
ヨナ
アッシリアの首都ニネベへ行って神の言葉を告げよ、という神の命令に背き、真反対の方向であるタルシシュ行きの船に乗ったヨナだった。しかしそこで嵐が起こり、ヨナを海に放り込むと嵐が収まった。
自分の命令に背いたヨナのことを怒ったために起こった起こった嵐だったが、それはヨナをタルシシュへ行かせない神の策略だった。
ヨナにとってニネベへ言って神の言葉を告げるというのは、敵の国の首都へ行って、あんたたち間違ってますよ言うことであって、インターネットを見ていたら誰かが、それは湾岸戦争の時にブッシュ大統領にイラクへ行って神の言葉を告げよ、ということに似ていると書いてあった。やっつけるべきと思っている悪の枢軸へ行って、神の言葉を告げよと言われているようなものだったのだろう。
再び
そんなことで海に投げ込まれたヨナだったが、2章を見ると大きな魚の中で3日間過ごして助かったと書かれている。その時に神が助けてくれたことを感謝しているようだ。
そしてその後再び神はヨナにニネベへ行って神の言葉を告げるようにと言われ、今回はヨナは素直に従った。
嵐に遭って海に投げ込まれなくてはならない状況になってしまい、それでも大きな魚によって助けられ、そこでヨナが思ったことは、結局は神から逃げることは出来ないということだったんだろうと思う。神から逃げることができる所なんてないということだったんだろう。そうなると神の命令に背き続けることも出来ないわけで、こうなったら神の命令を聞くしかないということになったということだろう。
ニネベは行ったヨナは、あと40日すれば、ニネベの都は滅びると歩き回りながら叫んだようだ。ニネベは大きな町で一回りするのに3日かかったと書いているので、2日目には、あと39日で滅びるって言ったのかも。
それはともかく、それを聞いたニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。しかも王までもが同じように断食をして粗布をまとって灰の上に座して、街中の人々に同じようにして悪の道を離れるようにと命令したという。
そんな素直に信じるのか、そんな素直に悔い改めるのか、という気がする。普通そんなに簡単に信じないよと思う。そんなに簡単に信じてくれたらどんなにいいかなんて思う。今で言えば、牧師の言葉よりも、あなたの今日の運勢はこれこれですと言うような占いの言葉とか、ここに写っているのは昔ここで殺された武士の霊ですというような霊能者の言葉の方をよっぽどみんな信じているような気がする。牧師の語る言葉はつまらないのかな。妬みなのかもしれないけれど。
悔い改め
ニネベの人たちはヨナの言うことを信じ、断食をし粗布をまとった。そして悪の道を離れ、不法を捨てた。断食をしたり粗布をまとったというのは、それほど嘆いて悔いているということだろうけれども、彼らは嘆くだけではなくて、悪の道を離れたという。つまりそれまでの間違っていた生き方を改めた、ということだ。
旧約聖書にこんな話しがあるというのは面白い。どこかで、ユダヤ人にとって異邦人は地獄の釜の燃料なんだというのを読んだ記憶があるけれど、ほとんど同じ人間とも思っていない、思いたくないような存在だったんだろうと思う。そして聖書の中にも、イスラエルに敵対する者たちを滅ぼし尽くしたなんて書いてあるようなところもある。自分たちイスラエルは神に選ばれた特別な民なのだという意識がとても強くて、自分たちが正義で異邦人は悪、自分たちは救われて異邦人は裁かれ滅ぼされるものという気持ちが強かったように思う。そして旧約聖書の中にもそんな見方をしているところが多いように思う。
ところがここでは、その異邦人であるニネベの民、しかも悪の枢軸とでも行っていいような、自分たちに敵対している国の民が、いともかんたんに神の言葉を信じて見事に悔い改めた、と書いているわけだ。これを読むユダヤ人たちにとってはこれは結構衝撃的な話しなんじゃないかという気がする。
ユダヤ人代表のヨナは神の命令に背いて神から逃げようとした。ところが異邦人代表のニネベの人たちは神の言葉を素直に信じ、すぐに見事に悔い改めてしまった。これは案外、なかなか信じないユダヤ人に対する当てつけのような物語かもしれない。
あんたたちユダヤ人は、自分たちは正しい、異邦人は間違っている、と単純に考えている。そして自分たちはもう神に選ばれている特別の民なんだ、神のこともよく分かっている、自分たちこそ神に従っている優良な民なのだ、と思っているかもしれない。しかしその実体は、自分の好き嫌いや自分の都合で、神の命令を真っ向から拒否しているんじゃないのか。神の言葉を素直に信じる者こそが神の民なのだ。たとえそれが悪の枢軸の民であろうと、神の声をしっかりと聞く者、悪から離れる者、生き方を改める者、それこそが神の民なのだ、あんたたちは選ばれた民なんていうことで思い上がっているんじゃないのか、そう言われているような気がする。
ヨナとは、今で言えば、毎週礼拝に来ている自分たちこそ神の民だ、自分たちは神に愛され神に赦された者なのだ、救われた者なのだ、と思い、教会の外の人のことを見下げているような私たちのことかもしれない。
昔、大学の時、クリスチャンの学生の集会があって、その時の講師は有名な牧師だった。後でその時のテープも手に入れて何回も聞いたけれど、その中に、「クリスチャンじゃなくてもいい人はいっぱいいます。クリスチャンよりもいい人はいっぱいいます。」という言葉があった。その頃はクリスチャンになって2年か3年目くらいだったかな。クリスチャンは特別ないい人間で、自分もいい人間ならないといけないような気持ちがあった。教会の中にこそいい人間がいるような、教会の中にこそ一番いい人間がいるはずだというようなそんなあわい思いがあった。けれどその時の牧師は、教会の外にもいい人間がいっぱいいる、クリスチャンよりいい人間はいっぱいいると言っていた。その頃は何でそんなこと言うんだろうかと思っていた。
このヨナ書は、その答えなのかもしれないと思う。クリスチャンはいい人間じゃない。クリスチャンだからいい人間ではない。教会の中が特別な人間の集まりで、特別きよいわけでもない。
むしろ教会の外の方にすぐれた人間、優しい人間、いい人間がきっと多いんだろうと思う。
私たちはただの人間、きよくも特別でもないただの人間だ。私たちが特別な何かを持っている訳ではない。特別な何かを神にもらった訳でもない。ただ神の言葉を聞いて、それに従っていこうと思っている人間なのだ。
神の言葉もなかなか素直に聞けない、なかなか素直に従っていけない、それが私たちの現実でもあるのだろう。ダメなクリスチャンなのだ。
長年教会に来ていても、長年クリスチャンをやっていても、それで偉い訳でも立派なわけでもない。今神の声を聞いているか、今神の声に従っているか、それが問題だ。だから今日初めて神の声を聞いてそれを素直に聞く人の方が、私たちよりもよっぽど立派な神の民だと言えるのだと思う。
思い上がることなく、威張ることなく、ただ謙虚に素直に、神の言葉を、神の声を聞いているのかどうか、そのことを問われているのかもしれない。
立派じゃなくてもいい、良い人間じゃなくてもいい、しかしそこで神の声をじっくりと聞いていけばいい。それが一番大切なことだと思う。