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礼拝メッセージより
「おまえに」 2009年9月13日
聖書:ヨナ書 1章1-15節
ヨナ
なんだか不思議な話し。列王記下14章25節にヨナという預言者が出てくるそうだが、そのヨナとこの物語がどれほど関係があったかはよくわからない。2章では巨大な魚の中に人が3日間いたなんてことが書かれていて、おとぎ話をいう感じがする。
ヨナは列王記によると北イスラエル王国の預言者。そのヨナに神が命じる。ニネベへ行け。ニネベはアッシリアの首都。アッシリアはイスラエルの敵。そんな所へ神から行けと言われてしまう。
ヨナは思う、冗談じゃない、あんなところへ行けるか。神は、彼らの悪はわたしの前に届いていると言っているが、ニネベの悪に対して神がどうしようというのか、神がニネベの人たちに何を言おうとしているのか、詳しくは分からない。悪がはびこっていたことでただ裁きを告げることなのか。それとも悪を悔い改めさせようとしているのか。
何にしてもヨナは、そんな敵の町のことなどには関わりたくないといったかんじでヤッファに向い、そこからタルシシュに向かう船に乗り込んだ。ヤッファは地中海岸にある町で、タルシシュとはスペインの町らしい。イスラエルから言うと西の方角になる。つまり東の方角になるニネベとはまるで反対方向へ向かったわけだ。それも人々に紛れ込んで神から見つからないように逃げようとした、というのだ。なんだか神がヤッファの港にいて、ヨナを一所懸命に探しているかのような言い方に聞こえる。そしてヨナは神に見つからずにうまく逃げられた、はずだった。
ところが神は嵐を起こしてしまう。船乗り達はあわててそれぞれ自分達の神に助けを祈りつつ積み荷を捨ててなんとかその嵐を乗り切ろうとした。しかしヨナは船底で寝ていた。他の者たちが大騒ぎしている中で、ヨナは一人船底でぐっすり寝込んでいた。
ヨナは自分のせいで嵐になったことがよく分かっていた。神から命令に従わないで神から逃げている、それを神が許していないための嵐だということがよく分かっていた。だから船長から、起きておまえの神に祈れ、と言われても祈らない。祈るも何も、神に逆らって神から逃げているんだから祈れるわけがない。
けれども他の人たちにとってはどうしてこんな嵐に遭うのかということが分からないので、誰のせいで嵐が起こったのかということでくじを引くことにしたらしい。そうすると見事にヨナにあたった。ヨナにとってはやっぱり当たったか、というところだろうか。
ヨナは自分を海に放り込めば嵐は収まると告げる。しかし船乗り達はそれを聞いてもなんとか自分達の力で陸に着こうと努力する。彼らは信仰的であり思いやりもある人たちだ。外国人であるヨナに対しても、それも神の命令に逆らい、神から逃げてきたヨナの命をなんとか救おうと努力している。しかし結局は駄目で、仕方なくヨナを海に放り込む。その時には主に祈ったという。ヨナを海に放り込むのは仕方がないことなんですから、このことで自分たちを責めないで下さいと祈ったという。
ヨナを海に放り込むと嵐は見事に収まる。そこで人々は主を恐れ、いけにえをささげたなんてことも書かれている。
一方、海に投げられたヨナはそのまま海の藻屑になるはずだった。ところが神は巨大な魚に命じて海に落とされたヨナを飲み込ませる。そしてヨナはその魚の中で三日三晩を過ごす。そこで彼は祈った、というのが2章のところになる。
民族主義
なぜヨナは素直にニネベに行かなかったのか。
ユダヤ人以外の人間が嫌いだったのか。ユダヤ人以外に神の言葉を伝えることがいやだったのか。ユダヤ人だけが特別と思っていたのか。
特別アッシリア人が嫌いだったのだろうか。歴史的にもユダヤ人はアッシリアから痛めつけられていた過去があった。そんなやつらのために自分が働くなどもってのほか、いくら神の命令でもできることとできないことがある、ということだったのかもしれない。それも考えられなくもない。しかしそれでも何も地の果てのタルシシュ迄行かなくても、俺は行かない、と言えば済むことのように思う。
タルシシュへ向かったということは結局は神から逃げようということだったようだ。神の命令から逃げようということだったのだろう。神の手が一番届きにくい所、地の果てに行ってしまおうということだったのだろう。神はイスラエルの神、イスラエルから遠く離れれば神は追っては来ない、ということだったのだろう。そして無茶なことを命令する神から逃れようということだったのだろう。何がなんでもニネベには行かないということだったらしい。
嵐
しかし神はイスラエルにだけいるのではなかった。ユダヤ人だけの神ではなかった。全世界の神だったのだ。ヨナは神から逃げることはできなかった。ヨナが逃げる事ができる場所はなかったのだ。ヨナは自分が乗り込んだ船が嵐にあった時、もうすでにそのことを感じていたのだろうと思う。嵐が自分のせいであるということがほとんど分かっていたのだろう。そしてくじがあたることでそれが確実なものとなった。
ヨナは神から逃げようとしたけれども逃げられないということを知って、もうどうでもよくなったのではないか。神の命令に背いて神から逃げようとしたけれども逃げられない、だからといってではニネベに行きましょう、とはやりなかなかならないだろう。神の命令には従いたくない、しかし逃げるところもない、ならばもう死んでも仕方がない、ということだったのではないか。殺すなら殺せ、ということだったのではないか。だから自分から海に捨てればいい、と言ったのだと思う。
あきらめない
しかし神はそのままヨナを殺す事はしなかったというのだ。大きな魚を使ってヨナを守ったというのだ。神の命令に背き、神から逃げようとして逃げられず、もうどうでもいい、死んでもいい、と思っていたかもしれないヨナだった。そのヨナを神は守ったのだ。かなり荒っぽい方法ではあるが、神は自分のところから逃げようとするヨナのことをまだあきらめてはいない。なんとかヨナを呼び戻そうとする。なんとしてもヨナを連れ戻そうとする。蛇ににらまれたカエルのように、神に魅入られたら逃げられない、ということなのかな。
委託
しかし自分が敵と思っている人の所へ行けというのはやっぱり大変なことだ。もし自分が言われたらやっぱり嫌だと言いたくなる。でも絶対嫌だ、というヨナなのに神は全然諦めない。もっと適任者がいたんじゃないかと思ってしまう。神の命令ならと言って素直に従う人だっていたんじゃないかと思う。でも神はひたすらヨナにこだわっているかのようだ。
おまえが行くんだ、おまえに行って貰いたい、そう言われているような気がする。その後神は魚に命じてヨナを呑み込ませ、ヨナは3日間魚の中にいたということが2章で書かれている。しかし何でそこまでヨナにこだわるんだろうか。何だか不思議だ。絶対おまえじゃないといけないんだ、とでも言いたげだ。
その後ヨナはすっかり立派な敬虔な人間になった訳ではないようだ。しかし彼は神の命令に従いニネベに行ったことで神のことをもっと知ることになる。神の愛をもっと知ることになる。
神の命令に従うのは、そのことによって神のことをもっと知るためかもしれない。神の愛をもっと知るためかもしれない。
きっと私たちそれぞれにそれぞれの務めを託されているのだろう。これはおまえにして貰いたい、という務めを託されているのだ。それは私たち自身がもっともっと神のことを知るため、そして私たちが自身が豊かに生きるための務めなのだと思う。