前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「時が来れば」 2009年9月6日
聖書:エレミヤ書 32章6-15節
時
時はユダの王ゼデキヤの第10年、ネブカドレツァルの第18年、エレミヤはユダの王の宮殿にある獄舎に拘留されていた、ということが32章1節に書かれている。その理由は、エレミヤが、エルサレムがバビロンの手に落ちて、ゼデキヤはバビロンの国に連れて行かれる、ということを預言したからだった。そんなことを言われることに気を悪くしたゼデキヤはエレミヤを牢屋に入れてしまったということらしい。そんなことを言われれば腹も立つかなという気もする。けれどもその時はすでにバビロンの軍隊がエルサレムを包囲していたというのだから、現実にはエレミヤの預言の通りにことは運んでいるという状況だった。
土地
そんな時に主の言葉がわたしに臨んだ、と書かれている。神がエレミヤにいとこのハナムエルの畑を買ってくれと言いにくるから買い取れと示されたというのだ。もうすぐユダは滅ぼされ、占領され、何もかも取り上げられようとしている。今頃土地を買ってもそれを占領軍に取り上げられてしまえばそれで終わりである。
エレミヤはその畑を銀17シェケルで買った。17シェケルは約200gだそうだ。そして正式な購入証書を作成したと書かれている。証書を作ったのはいいが、それがもうほとんどただの紙切れになってしまう可能性が高いこんな時期に、将来占領が解かれれば自分の土地となるであろうけれども、それがいつになるのかさっぱり分からない、そんな時期に神はこの畑を買えというのだ。
当時は貧しくて土地を手放すときには親戚が買うことになっていたそうで、そんな貧しい親戚のためには一肌脱ぐということでもあったのかもしれない。しかしもうすぐ占領される土地を持っているよりもお金にしておきたいと誰もが考えていたのではないかと思う。この話にエレミヤが素直に乗ってくれたことは、ハナムエルにとっては全く好都合だったのではないかと思う。
祈り
エレミヤは神の命令通りにした。しかしもうじき占領されることが誰の目にも明らかな時にそんなことをするのは馬鹿げたことだったのだろうと思う。エレミヤはその後神に祈っている。祈らないではいられなかったのだろう。なぜこんな馬鹿げたことを命令するのか。ただ私を貧乏にするためか、なぜこんな無駄なことを命令するのか、そんな気持ちがあったのではないか。
それに対して主が答える。27節には、「見よ、わたしは生きとし生けるものの神、主である。わたしの力の及ばないことが、ひとつでもあるだろうか。」私の力が及ばないことがひとつでもあろうか、と神は言うのだ。あらゆることは私の支配の中にある、ユダの国が滅びることも、そしてやがてまた国が再建されることも、全て私の手の中にあることなのだ、と神は言う。もうすぐ国が滅びる、しかしそれもイスラエルの民が、「わたしに背を向け、顔を向けようとしなかった。わたしは繰り返し教え諭したが、聞こうとせず、戒めを受け入れようとはしなかった。彼らは忌むべき偶像を置いて、わたしの名で呼ばれる神殿を汚し」(33,34節)た、そのために国が滅びようとしている、それは私がそうしているのだ、と主は言う。しかしやがて彼らをここに帰らせ安らかに住まわせる、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない、と主は言う。
すべては私の計画、私の意志の下に起きている出来事なのだ。国が滅びるのも、そしてやがて再建することも私の計画なのだ。やがてまたこの国で人々が畑を買うようになる、やがてまたこの国を繁栄させる、だから今あなたは畑を買いなさい、やがてまた国が繁栄するという私の約束を、あなたが畑を買うという行為で示しなさい、ということのようだ。
嘆息
エレミヤは神の言葉をただ素直に信じ切っていたのだろうか。ただただ何でも神の言葉だからとバカ正直に信じていたわけではなかっただろう。
エレミヤは神の命令通りに畑を買い、証書を作り、その後に神に問いかけた。祈りの中で問いかけた。その最初のところが、「ああ、主なる神よ」(17節)である。「神さま、あなたの言われたとおりやりました、ハレルヤ」ではなかった。「ああ神よ、今どうしてこんなことをしないといけないのですか、どうしてこんな時に」というのがエレミヤの祈りだった。しかもそれは命令通りにやった後での問いかけだったのだ。神の命令通りにしている、しかしそれでも納得できないものがエレミヤの心の中にくすぶり続けていたのだ。
訳の分からない世の中、訳の分からない命令、不条理、理解できない命令。しかし神の命令に従うしかない、神のことばは成っていく、理解できなくても承服できなくても神の言葉は成っていく。それに従うしかない。なんとばかなことをしているのか、なんと愚かなことをしているのか、そんな思いを抱きつつもエレミヤはそれに従うしかないことを知っている。自分にはその道しか残されてはいないのだ。しかしだからといって何もかも納得できて、疑いも恐れも全くない、なんてことはあまりない。エレミヤには疑いと恐れが渦巻いていたのだと思う。だからこそここで、ああ、という嘆息のことばを吐いたのではないかと思う。
まだエレミヤは神の命令がはっきりと聞こえているからいいなと思う。やがてその時がやってくるという神の約束が聞こえているからいいなと思う。大丈夫だという神の声が聞こえるならば待つこともできようかと思う。
私たちには神の約束も聞こえていないことが多い。どうしたらいいのかという命令も分からないことが多い。そんな私たちは一体どうしたらいいんだろうか。せめてこれこれをこうしなさいと言って欲しいという気がする。具体的な命令が欲しい。でもエレミヤのように馬鹿げた、いかにも自分が損をするようなことをしろと言われたら、それはそれで大変かもしれないけれど。
従うこと
そう思うと神の命令に従うことは結構苦しいことでもある。エレミヤがそうであったようにそれは一大決心をしなければいけないこともある。目に見える現実と、目に見える財布の中身と通帳の残高と、神の命令、神の計画の狭間で私たちもうめくしかないときもある。ああ神よ、どうしてそのようなことをしないといけないのかと苦闘して祈るしかないこともある。けれども私たちの信仰とはそうやって神の御心を求めていく、聞いていく信仰なのだと思う。現実との狭間の中で揺さぶられながら神の声を聞いていく、それが私たちの信仰だろう。
目に見えない所で神が私たちの全てを支えてくれている、それが私たちに与えられている約束なのだろう。何月何日にこうなるから、というような約束ではないようだ。けれでもやっぱり神は私たちを支えてくれている。それを信じて私は神に従っていく。
ああ、と嘆きながら、苦悶しながら、私たちも神の声を聞いていきたいと思う。現実の苦しい状況の中で、神の声を聞いていきたいと思う。神は見えないところでしっかりと私たちを支えてくれているのだ。神はすべてを支えてくれているのだ。だから苦しい現実の状況だけを見るのではなく、財布の中身だけを見るのではなく、神の御心を神の計画をしっかりと見つめていきたいと思う。そして私たちがなすべきことをしっかりと聞いていきたいと思う。
そしてどんな時でもお前を守る、お前が大切だ、いつまでもお前と共にいる、そんな神の約束をしっかりと聞いていきたいと思う。