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礼拝メッセージより
「やさしいことば」 2009年8月30日
聖書:マルコによる福音書 9章38-50節
いい人
教会に行っているのはいい人ばっかりなんでしょう、と言われることがある。あるいはまた、教会に行っているのにそんなことしていいのか、なんて言われることもある。そんなこと言われると、教会に行っていることを誰かに知られるとまずいんじゃないかという気になったり、自分の素性を知られてはいけない、まわりから悪い人間であると思われてはいけないじゃないかと思ったりする。
教会にはいい人間じゃないといけないんでしょうか。教会に行っているといい人間になるんでしょうか。
教会に行っている人に聞くと大概そんなことはないと言うのではないかと思う。あなたはいい人間だから教会に行っているのか、教会に行っていい人間になったのか、と聞かれてハイと答える人はまずいないんじゃないかと思う。自分のこととして考えたらとてもいい人間だなんて思えないという人がほとんどだと思う。
でも、周りの人たちは教会はいい人間の集まりのように思っている。そして教会の人たちも、いい人間とまでは言わなくても、自分たちは神に愛されている特別な人間と思っている、思いたいようなところがあるんじゃないかと思う。俺たちは救われている、だから救われていない人間とは違うのだというような、どこか自分たちは世間とは違う一段高いところにいるんだというような思いがあるのではないかと思う。
そんな違いはあるのだろうか。その違いがあるとするならば、それは教会の方が一段高いような、そんな違いなんだろうか。
味方
今日の箇所は、イエスの12弟子の一人であるヨハネが、イエスの名前を使って悪霊を追い出している者に対して、自分たちに従わないのでやめさせた、ということをイエスに報告したところだ。弟子たちは自分たちが一段高いところにいるような意識があったんじゃないかと思う。俺たちはイエスの一番弟子なのだ、その俺たちに従わないでイエスの名を使って悪霊を追い出すとはなんと生意気な、けしからん、という思いがあったのだろう。
ヨハネがイエスにこのことを報告したとき、ヨハネはイエスに褒められると思っていたのではないか。
しかし、イエスはヨハネを叱っているようだ。イエスの名によって悪霊を追いだしている、どこの馬の骨とも分からない者の方を弁護している。そして弟子たちの考え方の方を批判している。自分たちだけがイエスの弟子だ、自分たちこそ正当なイエスの弟子だ、自分たちこそエリートだという思いをイエスは批判したのではないか。そしてわたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである、と言っている。特許を取ったのに、その特許を自由に使ってもいいと言っているような気がする。弟子たちは勝手に使ってはいかんと言っているみたい。
そして41節では、「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたにいっぱいの水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」なんてことを言っている。イエスの弟子だということで水一杯をくれる者はその報いからもれることはない。報いとはなんのことなんだろうか。天国に行くということなんだろうか。水一杯くれるということで天国に行けるということか。
小さい者に
逆にイエスを信じる小さいものの一人を躓かせることに対しては、イエスは強い憤りをもっているようだ。これに続く一連の言葉は恐怖心さえ覚える。
この言葉どおりにした人はいるのだろうか。それが信仰深い人のありさまなのか。そんなことできないよと思う。
しかしイエスはそこまで小さい者、小さい私たちのことを思っているということなのかもしれない。
ある人がある何百人もの礼拝をしている大きな教会の牧師に、先生は多くの人を導いてきたんですね、と言ったことがあったそうだ。それに対してその牧師は、それよりももっと多くの人を躓かせてきました、と答えたそうだ。
その時には、教会から離れさえるという意味で躓かせるという言葉を使ったのだとおもうけれど、教会から離れることがなくても、私たちはいつもいつも人を傷つけ、嫌な思いにさせ、元気をなくさせてしまっているのではないかと思う。そして案外、そうやって躓かせていることに気づくこともなく、それを悲しむこともない、のが私たちの現状かもしれない。
私は救われた、イエスに従っている、教会に通っている、クリスチャンだ、だからあなたたちとは違うのよ、という意識を持つことで人を躓かせることも多いように思う。12弟子たちのように、自分が正しいことをしたと思うことで、反対に誰かをイエスから遠ざけていることがあるのかもしれない。
ひとこと
何気ない一言が、人を傷つけることがある。もちろんことばそのものよりも、その言葉を話す、その気持ちが問題なんだろう。心の中の気持ちが言葉に現れる。同じ言葉でも人によって全く違って聞こえることはよくあることだ。そして言葉で人を殺すことだってできる。
ある教会の婦人会でこんなことがあったと聞いたことがある。婦人会の集まりの時にみんなでお菓子を作ってきていた。新しく教会に来るようになり、婦人会にも出席し始めていた人がいた。その人はケーキを焼いてきていて、みんなで食べた。それを食べたずっと昔から教会に来ている婦人が「あら、以外とおいしいじゃない」と言った。新しい婦人は次の週からこなくなった。
教会に長いこと来ていると、聖書の知識も増えてきて、教会のしきたりや流儀も身に付いてきて、自分は世間一般の人間とは違うという思いになってきてしまうのだろうか。そして新しい人たちに対しては、自分たちの教会に入れてやるというような気持ち、自分たちが一段高いところにいるような気持ちになるのかもしれない。それが、意外とおいしいじゃない、という言葉につながっていったんじゃないかと思う。
塩
でも自分はどうなんだろうかと真剣に考えると、自分こそ目を抉りだし、片足を切り捨てた方がいい者だという気になるのではないか。けれども、そんなことはとてもできないから、そのまま地獄に落ちるべき人間なのではないかと思う。
その話しに続いてイエスは、自分自身の内に塩を持ちなさい、と言われた。それは、自分こそ小さい者をつまずかせる者であるということを自覚するということではないかと思う。それは自分の弱さ、だらしなさ、駄目さを自分で知っているということ、自分の罪深さを自覚しているということではないか。
でもそれは結構しんどいこと。塩とは、それを持っているために落ち込んだり、苦しんだり、悩んだりするようなもの。何で自分はこんなんだろう、と悩むような、何とか捨ててしまいたいとおもうようなこと、それが塩なのではないか。その塩が何かある度に私たちの古傷を痛くさせる。傷口に塩を塗りこむように。そして私たちを苦しめる。悩ませる。そんな塩をイエスは持っているようにと言っているように思う。
苦しみを経験してきた者はどこかやさしさを持っているような気がする。『贈る言葉』という歌の中にも、人は悲しみが多いほど、人には優しくなれるのだから、というような歌詞があった。
やさしいことば、とは塩味の利いた言葉のこと。そんな自分の駄目さ、罪深さを自覚している心から出てくる言葉のこと。自分自身に塩を持っている者の言葉。自分こそエゴの固まりである、自分こそ偽善者であると自覚している者の言葉。
だからこの塩味の利いた言葉は、相手にとってからい言葉ではなく、自分にとって辛い、自分が辛さの中から出てくる言葉のこと。
逆に塩味が抜けるということは、自分の罪深さを忘れて、偉くなったように思うこと、信仰深くなったと思うこと。そうなった時の言葉は塩味のきいていない、そして相手を傷つける、切り捨てる言葉になるだろう。
昔、子どもが小さい時に車の中でよくゴスペルソングのテープを聞いていた。その中は、歌と一緒にお姉さんと子ども達の会話も入っていた。その会話の一つに、ある子どもがちびと言われたのではなぺちゃと言い返して喧嘩になったという話があった。それを聞いていた別の子どもが、「ねえおねえさん、私たちは一人一人神さまに作られたのでしょう。神さまが作られたものを悪く言うのは間違っていると思います。」というのがあった。
その言葉はまったく正しいのだろう。しかしまるで血が通っていないように聞こえてしまう。確かに神が創った物を悪く言うのは間違っているだろう、でもそれは自分に塩を持っている者の言葉ではないのではないか。一度もけんかをしたことのない、人の痛みをまるで知らない人間の言葉ではないかと思う。理屈としては合っているだろうが、その言葉に愛はあるのか。喧嘩してしまって落ち込んでいる子どもに、そんなこと言うのは間違っているとさらに追い打ちを掛けている、傷つけているだけじゃないかと思う。
神が造った者を悪く言うのは間違っているというのは教会の理屈としては正しいことだろう。けれどその正しさが相手を傷つけることだってあるんだと思う。
教会では、神がこう言っている、聖書にこう書いている、だからこうしましょう、こうしないといけません、というような、いわば神の立場に立って、罪も汚れも全く持ってないかのようなことや美辞麗句を語りがちだ。つまり相手の痛みをまったく関係のない、塩を持っていない者の言葉を語りがちだ。一番言っているのは牧師なのかもしれないけれど。でもそんなこと言われても傷ついている人や苦しんでいる人には何の慰めにもならない。どころか余計に苦しめ傷つけてしまうだろう。
しっかり塩を持ちましょう。痛みを持っている者として、傷を持っている者として、罪をもっている者として生きていきましょう。そうすることで平和に過ごすことができる。そこから出る言葉は、理屈や綺麗事ではないやさしい言葉となるに違いない。