前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「本物」 2009年8月23日
聖書:エレミヤ書 28章1-17節
バビロン補囚
時代はバビロニアによって第一次バビロン補囚が起こった後、ヨヤキン王がバビロンへ連行され、替わりにバビロニアによってゼデキヤ王が擁立されたころのこと。
預言
27章では、ヨヤキン王の就任の祝賀のためなのだろう、各国の使節団がやってきていた、その時にエレミヤは軛の横木と綱をつくって自分の首にはめて、バビロンへ服従するように、そうすれば「わたしはその国民を国土に残す、と主は言われる。そして耕作をさせ、そこに住まわせる」という神の言葉を告げる。そしてゼデキヤにも「首を差し出して、バビロンの王の軛を負い、彼とその民に仕えよ。そうすれば命を保つことができる」という言葉を告げる。
当時はユダの周辺諸国に反バビロン同盟結成の動きがあったようだ。エジプトの力を頼りに、バビロンに対抗しようとする勢力があったけれども、エレミヤはバビロンへ服従することが神の意志であると告げる。
ハナンヤ
そして今日の28章では、預言者ハナンヤが登場しエレミヤと対決する。
ハナンヤはバビロンから、神殿の祭具も補囚にされている民ももうすぐ帰ってくる、主がバビロンの軛を打ち砕くからだ、と言った。
しかしエレミヤはそれに対して、「アーメン、どうか主がそのとおりにしてくださるように。どうか主があなたの預言の言葉を実現し、主の神殿の祭具と捕囚の民すべてをバビロンからこの場所に戻してくださるように。だが、わたしがあなたと民すべての耳に告げるこの言葉をよく聞け。あなたやわたしに先立つ昔の預言者たちは、多くの国、強大な王国に対して、戦争や災害や疫病を預言した。平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる。」と言った。
これはどういう意味なんだろうか。主がバビロンから神殿の祭具や補囚の民が戻してくれることを自分も望んでいる。昔の預言者たちも戦争や災害や疫病を預言した。預言者の多くはそんないやなことを言ってきた。しかし平和の預言者は、それが成就して初めて本物だと分かると言っているみたいだ。要するに自分の国に平和が来る、というような聞こえの言い預言者はあまりあてにはならない、平和の預言者なんてのは所詮偽物ということを言っているのかもしれない。
それを聞いたハナンヤはエレミヤの首から軛をはずして打ち砕いたという。そして主は二年のうちにバビロンのネブカドネツァルの軛を打ち砕く、という自分の主張を繰り返したという。どうやらエレミヤからお前の預言は当てにできない、信用できないと言われたことで興奮してエレミヤの軛を砕いたようだ。
一方エレミヤは冷静であるみたいだ。黙ってそこを立ち去ったようだ。そしてその後ハナンヤへの主の言葉を預かり、そのことば通りにハナンヤはその年の7月に死んだ、なんてことが書かれている。
本物
預言者が二人登場して、その二人が全く反対のことを語っているとき、そのどっちが正しいのか、どちらが本物なのか、どこでどう判断すればいいんだろうか。
そもそも預言者ってどうやって神の言葉を聞くのだろうか。耳に聞こえてくるのだろうか。それとも心の中に湧いてくるような感じなのだろうか。聖書を読むと、まるで電話でもかかってくるかのように神の言葉が聞こえてきたような書き方をしているけれど、実際はどうなんだろうか。そして預言者自身、それが神からの言葉なんだという確信できるのだろうか。きっとできているからみんなに告げるのだとはおもうけれど、その言葉が電話のように聞こえるのかイメージとして湧いてくるのか、いずれにしても、それが神からのものであるということ、自分の勝手な思いこみではなく神からのメッセージであるということを、どうやって判断するんだろうか。
それは預言者自身の問題でもあるわけだけれど、ではそんな預言者と称する人たちの言葉を聞く者にとっては、どれが本物であるのかということをどこでどう判断すればいいんだろうか。
耳の痛いことを言っている方が本物、ということなんだろうか。そういう面もあるかもしれないとは思う。耳障りのいいことって、その時には気持ちよくても後では何も残っていないなんてことも多いような気もする。
そもそも本物の神の言葉を聞いたとしても、その言葉をどう聞くかということがもっと大切なのかもしれないという気がしてきた。エレミヤさんが本物の預言者でした、エレミヤさん良かったですね、で終わってはなんにもならない。
私たちには聖書を神の言葉として読んでいる。でも、神の言葉はもう私たちの手の中にあるんだ、と聖書を持って安心していても仕方ない。この言葉を私たちが神の言葉として聞いていくことが大事なんだろう。
それは耳の痛い言葉をしっかりと聞いていくことなのかもしれない。それは自分をしっかりと見つめる言葉であり、自分を省みる言葉なんだろうと思う。自分の罪や間違いや過ち、それを示される言葉こそが本物の神の言葉なのではないかと思う。でも自分の間違いを聞かされるなんてのは一番いやなことだ。自分の罪なんて知らせないでほしい、ほっといて欲しいと思う。けれどそんな間違いだらけの、できそこないの自分を、真実の自分を愛されている、というのが、それがまた神の言葉なのだろう。
そうやって真剣に聞いていくことで初めて聖書も本物の神の言葉となっていくと言えるではないかと思う。