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礼拝メッセージより
「どうして」 2009年8月16日
聖書:哀歌 2章5、12-14節
哀歌
「紀元前597年、ネブカドネザル王はエルサレム市街に入城し、住民のうちもっとも有力な若い者をユダヤ人の王エホヤキムとともに殺害し、約3,000人(『エレミヤ書』によると3,023人)の有力者を捕虜としてバビロンに拉致した。
エホヤキムの息子のエホヤキンが王国を嗣いだが、ネブカドネザル王は謀反を恐れ、エホヤキンや王族をはじめとしてエルサレム市内の若者や職人たちのすべてをバビロンに連行させた。その数は10,832人に達したという。エホヤキン王の叔父ゼデキヤが王位を継承したが、紀元前586年エルサレムは破壊され、ゼデキヤ王以下ユダヤ人たちはバビロンへ連行された。
『エゼキエル書』などの記録から、当初ユダの捕囚民達はこのバビロニアへの強制移住は一時的なものであり、間をおかず新バビロニアは滅亡して故国へ帰還できるという楽観論を持っていたといわれている。これに対しエレミヤとエゼキエルはエルサレム神殿の破滅が近いことを預言し、繰り返し警告を与えたが「救いの預言者」と呼ばれた人々は楽観論を吹聴してまわり、捕囚民達は滅びの預言に耳を傾けることはなかった。しかし、上述した如く紀元前586年にエルサレム神殿が破壊されると、ユダの捕囚民に広がっていた楽観論は粉砕された。」(ウィキペディアより)
哀歌には5つの歌がおさめられていて、紀元前586年におきたエルサレムの陥落とエルサレム神殿の破壊を嘆く歌であり、バビロン捕囚の時代につくられたものと考えられているそうだ。
神殿があるからエルサレムは大丈夫なのだ、主の神殿と言っておけば神が守ってくれる、というような話しが出回っていたそうだ。「救いの預言者」と言われる人たちがそう言っていたのかもしれない。そしてエレミヤたち、本当の預言者たちの警告を聞くことがなかったようだ。エレミヤたちは耳の痛いことを語っていたのだろう。自分たちの現実を見るように、自分たちの間違っていることを間違っていると認めるということだろう。けれどもなかなかそうもいかないのが人間らしい。
現実
先日インターネットで、日本も核兵器を持つべきだと主張している人の講演を聞いた。その人の言っていることはとても単純で分かりやすいという気がした。日本は良い国だ、日本は侵略していない、戦後の教育は日本を悪い国だと教えている、話し合いで外交はできない、核を持って強い国になって初めて言いたいことが言える、核を持つ国は攻められることはない、と言うようなことを言っていたと思う。
日本は悪い国だと教えているので今の若い者は自分の国に誇りが持てない、日本は悪い国ではない、良い国だ、そう教えないといけないと言っていた。けれど、日本は良い国か悪い国か、というような単純に分けられるようなことなのか、と思う。良いところもあるし悪いところもあるだろう。単純に良い国か悪い国かなんて見方自体に無理があるように思う。良い国なんだと思いたいため、あるいはそう主張したいために、悪い面を見ないようにしているような気がする。そしてこんな悪いことがあった、と言うと自虐的だと言われる。そしてあの国も悪い、あそこはもっと悪いという話しになって、結局自分の国は悪くはない、悪いのは他の国だったのだ、他の悪い国のせいでこうなっただけだ、というような話しになる。
なんでそんなに日本を良い国だと主張しないといけないいだろうという気がする。
自分
そんな話しを聞いている時は、日本だって間違っているところもおかしなところもあるだろうなんて思うけれども、でもいざ自分自身が間違っているということを突きつけられると、なかなかそれを認められないというのが正直なところだ。
先日、ある団体から何か話してくれと頼まれた。何を話してもいいと言われてもためになるような話しなんてできもしないし、結局ほとんど自分のことを話した。というかそれしか話しがなかった。その準備をしつつ、改めて自分の過去を振り返っていた。登校拒否をして部屋に籠もっていたころのことなんかを思い出していた。あのころはよく周りの間違いを指摘していた。今の教育はおかしい、今の社会はおかしい、なんてことをよく言っていた。周りの間違いばかりを主張していた。けれど、いくらそれをしたってなんにもならなかった。社会なんてそうそう変わるものでもないし、結局は自分が変わるしかなかったんだろうと思うけれども、でも自分の現実をしっかり見つめるというのもなかなか大変なことだった。自分が正しいと思いたい、自分が悪くないと思いたくないという強い気持ちがある。何か問題が起こった時も、自分のせいではないと思いたくなる。自分が間違っていた、自分が悪かった、となかなか思えないところがある。いつも誰かのせいにしてしまう。
自分が間違っているかもしれない、間違っているところは正していこうと思うことが大事なんじゃないかと思う。でもそのためには間違っているということを認めることが第一歩だ。間違っていないと思っていることは直せない。でも間違っていることを認めるということはとても大変なことだ。
教会では、私たちはイエスの贖いの死によって赦されたという。私たちは赦された者なのだ。ということはそもそも私たちは赦されないといけない者なのだ。赦されないといけない罪を持つ者なのだ。罪人なのだ。誰かが罪人とはそれは出来損ないということだ、と言っていた。私たちは赦されるしかない、そんな出来損ないの人間なのだ。自分の力ではどうにもならない、ただ赦しを受けるしかない、そんな人間なのだ。出来損ないなので間違いもいっぱいある。間違いだらけの人間なのだ。
私たちの現実はきっとそんな者なのだろう。自分の現実を見つめるとしたら、私たちは自虐的になるしかないんじゃないかと思う。でもそんな自分を愛してくれる方がいる、こんな自分が赦されている、だから生きているのだろう。
出来損ないの間違いだらけの失敗だらけの自分だ。だけど、その間違いを謙虚に受け止めて修正しながら生きていきたいと思う。
神殿がなくなって初めて彼らは自分たちの現実を真剣に顧みようとしたのではないかと思う。そこで初めて何が悪かったのか、何が間違っていたのか、それを考えたのだろう。自分たちの信仰を真剣に顧みたのもその時だったのだろうと思う。自分の生き方を変えることはとても難しい。いよいよ大変なことにならないとなかなか変えられない。自分たちの国が滅びるという大ピンチを迎えている。しかしそれはそこから修正していく振り返りの時でもあり、チャンスでもあったのだろうと思う。
2:14では「預言者はあなたに託宣を与えたが/むなしい、偽りの言葉ばかりであった。あなたを立ち直らせるには/一度、罪をあばくべきなのに/むなしく、迷わすことを/あなたに向かって告げるばかりでった。」と言われている。
罪を認めること、間違いを認めること、そこから新しい一歩が始まるのだと思う。それはつらいことだけど、そこを通らないと始まらないのだろう。
大丈夫?
しかしここを読みつつ、僕はどんなことを語っているのだろうと思った。空しい偽りの言葉ばかりを語っているんじゃないかと心配している。どうなんだろうか。
昔あるアメリカのドラマで、神父さんが行方不明になったという話しがあった。筋は忘れたけれど、その神父さんの同僚が行方不明になった神父さんのことを「彼はいつも自分の信仰心を疑っていました。だからいい神父になれたんです」と言っていた。
私たちの信仰心もやっぱり完全なものではないし、間違うこともあるし間違っている部分もあるんだろうと思う。間違っているかもしれない、という位の謙虚さが大事なんじゃないかと思う。
神を信じている私は罪人であって出来損ないなのだ。正しいのは飽くまでも神なのだ。だから私たちはいつもその神を見上げていく、その神に聞いていくのだ。