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礼拝メッセージより
「正義を行う」 2009年8月9日
聖書:エレミヤ書 7章1-11節
時代
北イスラエル王国が滅亡してしてから100年ほど経った頃、南のユダ王国ではヨシヤ王の時代に宗教改革が行われた。それまで何代も続いた主の目に悪とされる王のあとにヨシヤ王は登場し、偶像やその祭壇をこわした。神殿には下品な形をした偶像が境内のあちこちに立っていたそうだ。
そんな偶像をこわした後、ヨシヤ王は神殿を修理することにしたが、その時に神殿の中で律法の書をみつけた。そして律法の言葉を聞いた王はびっくりし、女預言者フルダのところへ使いを送った。そうすると彼女は災いがこの国に降りかかる、他の神々を拝んだために主の怒りが注がれる、と言われる。
王はすぐにすべての民を招集し、律法の書をみんなに聞かせ、主の命令と掟を守ることを誓った。
この時から改革は急速に進んだそうだ。そして律法は儀式面では細かい所まで几帳面に守られた。表面的には立派な信仰を取り戻したかのようだった。しかしそれは表面的でしかなかったようだ。
ヨシヤ王がエジプトとの戦いで戦死してから民は動揺してくる。政治的には大国の間に挟まれて大変な状況ではあった。
主の神殿
今日の聖書はちょうどそのころの言葉だそうだ。
「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」という言葉がある。この言葉さえつぶやいておけば大丈夫だ、というようなことだったようだ。何かの呪文のようなものか。
いまわしい偶像もなくし神殿も修復した。そのことで神が自分たちを守ってくれる、神は自分たちの願いを叶えてくれる、そんな気持ちがあったのかもしれない。あるいは、神殿が立派にできたので却って神殿ばかりに目を奪われて、神のことを忘れてしまったのかもしれない。主の神殿、という言葉を口にはするが、でも神の言葉を真剣に聞くことはなかったようだ。だから、「お前たちの道と行いを正せ」と言われている。立派な神殿ができた、と喜んではいるけれど、その神殿が神と自分とがつながる場所、神の声を聞き、神に祈る場所とはなっていなかったようだ。
信仰と生活
こんな話を聞いたことがある。ある人がクリスチャンになり、十字架があれば大丈夫だ、と信じていた。その人は知り合いの農家の人が、台風が近づいてきたので自分の畑の作物がとれなくなりはしないかと心配である、と言うのを聞き、十字架を作りその畑に突き刺しこれで大丈夫だと言ったそうだ。
聖書も十字架もそのものに力があるわけではない。ドラキュラに対しては効くらしいが。神に力があるのだ。そして私たちの信仰は、神を自分に都合のいいようにする利用するような信仰ではない。あるいはお守りをもつように信仰を持つのではない。教会に来ていれば、聖書を読んでいれば、祈っていれば、何も悪いことが起こらない、というわけではない。
私たちが神に創られたからその神に聞いていく、どう生きるのか、それを神に聞く、それが私たちの信仰だろう。神の拝み方を知ることだけが私たちの信仰ではない、と思う。
神と人と
では神のみこころはどこにあるんだろうか。私たちはどのようにしなさいと言われているのだろうか。結局は神を愛し、隣人を愛する、ということだろう。
5-6節では「この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく」といわれている。
神に従うということは、脇目もふらず、ひたすら神に向かって、神よ神よ、と言うことばかりではない。お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さない、そのことも神に従うことに含まれているようだ。つまり脇目を振りながら、周りを見ながら、隣人を見ながら、神よ神よ、と言う、そして神の声を聞いていく、それこそが神に従うということだ。
9節からのところでも、「盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。」といわれている。
神の御心はなんなのか。これは旧約でも新約でも一貫しているように思う。それは神を愛し隣人を自分を愛するように愛すること。隣人を自分のように愛することと、神を愛するいうことは一つのことのようだ。切り離せない一つのことのように思える。ものごとの表と裏というような。
だから神を愛するということは隣人を愛することでもあり、隣人を愛さないで神を愛するということはありえない、のではないかと思う。
そして実はぼくらもそこのところが足りないのかもしれない。教会に集められている者同志が愛していないのかもしれない。この当時のように、表向きは立派な信仰を持っているようで、形は立派で実は中身がない、ということなのかもしれない。いかにも信仰深い言葉を語り合いながら、でもそれはほとんど自分自身の信仰を見せびらかして満足している、なんてこともないわけではない。でも本当に信仰深いかどうかは、表面的なことではなく中身なのだろう。その中身とはやっぱり互いに愛すること、互いを大事にすることではないか、と思う。
コリントの信徒への手紙一の13章にも
13:1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
13:2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
13:3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
13:8 愛は決して滅びない。
とあるように、愛がなければ、何にもないのと一緒。ただうるさいだけ、やかましいだけ、になってしまう。私たちはどれほど真剣に愛ということを考えて
いるんだろうか。
愛なんて使い古された聞き飽きた、耳にたこの言葉だけど、でも結局はそこに戻るんではないか。
隣人を大事にしないところで、あいつはだめだ、なんなんだあいつの信仰は、としか思っていないところでいくら神に祈っても、そしてどれほど自分が信仰深いと思っていたとしても、その祈りを神は聞かない、と言っているのではないか、それは間違っている、その生き方は間違った生き方だ、と言っているのではないか。
そんなことを言われて、私は大丈夫と思えるとしたらよっぽど優れた信仰者か、あるいはよっぽど間抜けな人間かのどっちかということになりそうだ。こんな言葉を聞けば誰もが悔いるしかない。愛せない、愛していない自分を目の当たりにするしかないのではないか、と思う。
でもその悔いることから始まるのだろう。それが私たちの真実の姿ならばその姿をしっかりと見詰めることが大事だと思う。
ろくに愛していない自分を見詰め、いかにだめな愛のない人間であるかを認めねばならないのだろう。
真実
真実の自分を見つめない。認めない。それは罪人であることを認めないこと。
でも自分が罪人であることを認めると言うことは大変なことだ。こんな大変なことはない。確かに。自分が間違っていると認めることは勇気がいる。そうじゃないと思いたい。何がなんでも認めたくない、というのが普通の人間だ。だから自分のことに関しては一生懸命に弁解する。でも人のことになるとそんな言い訳聞きたくない、と思う。そこがまた罪人のゆえんかもしれないが。
しかし神はそんなありのままの、罪にまみれたような悪に染まったような私たちの姿を見詰めている。いくらええかっこうしても、神には全部わかっている。でもそんなありのままの私たちを神は愛しているのだ。自分でも認めたくないような惨めな私を神は大事に思っているというのだ。
私たちはお互いそのようにして神に愛され赦されている者同志なのだ。そして一緒に神に聞いていく者同志なのだ。相手に罪があり駄目なところがあり間違いがあるのは当然のことなのだろう。しかしついついその駄目さや間違いを一所懸命に指摘したくなってしまう。自分のことは放っといてもらいたいと思うくせに、相手のことになるとあの人の間違いを正してあげないと、なんて思う。それは結局は相手を裁いていることなんじゃないかと思う。
神は愛し合いなさいと言われている。相手のだめな所ばかり見て、それを責めて裁くのではなく、お互いに愛していきたいと思う。愛する対象として接していきたいと願う。それこそが神の命令であり、それこそが神に従うことでもあるのだと思う。