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礼拝メッセージより
「呼びかけ」 2009年8月2日
聖書:エレミヤ書 1章4-19節
預言者
旧約聖書の預言者が集中的に活躍したのは二つの時期。ひとつは紀元前8世紀の北イスラエルがアッシリアに滅ぼされた紀元前721年を中心とした時期。もうひとつは南ユダが滅ぼされ、バビロン補囚を過ごす紀元前587年を中心とする時期。エレミヤもちょうどこの時期にあたる。二つとも国が滅びるとき。
国が滅びるとき、そこにはなんらかの原因がある。その原因を指摘するために、預言者が登場した。つまり、どうして国が滅びてしまったのかという原因、何が間違っていたのかということを指摘するため、そしてその間違った道から正しい道に戻るためのどうすればいいのかということ、その言葉を神から預かって民に伝えるために預言者がいた。
しかし間違いを正すのはなかなか難しい。人は誰もがそうであると思うが、自分の間違いを指摘されてその通りだとすぐ納得できない。おまえは間違っていると言われても、分かりました、と言ってすぐに正そうとする人なんてのはほとんどいない。お前は間違っている、おかしいと言われても、大概はそんなことはないと言いたくなる。何度も言われると怒りだし、そんなことを言う奴は許せない、と攻撃するようになったりする。
預言者はそうやって誰もが多かれ少なかれ民から苦しめられたそうだ。イエスもこんなことを言った。(ルカの福音書)
6:20 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。
6:21 今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。
6:22 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。
6:23 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。」
預言者とは、神の言葉を預かる者であるわけだけれど、いつもみんなから大事にされて誉められるばかりではなく、反対に誰も聞きたくない耳に痛いことを伝えないといけないということも多かった、大変な務めだったのだろう。
拒否
エレミヤ書の1章はエレミヤが神に預言者として立たせられた、神から呼ばれた、というか、すでにあなたは預言者なのだと告げられた箇所。
神の言葉を語るなんてのはそう簡単にはいかない。預言者がどういう立場に立つのかということもエレミヤは知っていたのかもしれない。みんなが聞きたくもない、というようなことでも言わないといけないという立場になるということはなかなか大変なことだ。大勢の民に立ち向かって独りぼっちで語るというような所がある。
ちょっと待ってくれ、といいたくもなる。冗談じゃないよ、俺に出来るわけないよ、となるのも当然だろう。
若さ
この時エレミヤは何歳だったのか。20歳前後とか12歳という説もあるそうだ。とにかく誰もが若いと認める歳だったようだ。若いからできない、未熟だからできない、とエレミヤは神に答えた。
若いから、未熟だからできない、大事なことは任せられない、と人間は誰もがそう思う。「お前のここは間違っているぞ」、と言うのでも立派に人生を歩んで来た老人が言うことならみんな聞くかもしれないけれど、ただの若造がそんなこと言ってもなかなか聞いてもらえないだろう。
しかしそんな人間を、言わば若造を神は選んで大事な務めに着かせようとしているのだ。一体どんな基準でエレミヤを選んだのか、まるで分からない。おまえがやれと言われて、若いからできないよ、と尻込みするようなそんな人間をどうして選ぶのか皆目見当が付かない。人間的な感覚からいえばまるで分からない。どうしてそんなことすんのだろうか。わざわざ頼りないような自信のない人間を選ぶようなことをするのだろうか。
ギデオン
聖書の中にはエレミヤと同じ様に神の呼びかけに尻込みした人が他にもいる。
士師記6章にはギデオンが選ばれた時のことが書いてある。出エジプトをしたイスラエルの人たちがカナンの地に手に入れて定着した後、今度は外国から攻められるようになった、その時のリーダーとして選ばれたのが士師だった。そしてギデオンの時代はミディアン人が驚異となっていた時だそうだ。その時主はギデオンを選ばれた。
主の使いがやってきたときのギデオンの姿がふるっている。ミディアン人に小麦を奪われるのを免れるため、酒ぶねの中で小麦を打っていたのだ。敵を怖がって隠れて仕事をしていたようだ。しかも主の使いが、主はあなたとともにおられます、と言うのに対しても、なんで主が共にいるのに俺たちを見放したのか、主の驚くべき御業はどうなってしまったんですか、なんて反対に文句を言っている。
続いて主が、その偉大な力を持っていけ、おまえがイスラエルを救うんだ、わたしがおまえを遣わすと言うのに対しても、なんで俺にそんなことができるんだ、と答える。その後も、しるしを見せてくれとか供え物をするまでここを離れないでくれとか、主の使いを見てしまった死んでしまうかもしれない、とか。ギデオンはいろいろな神の業を見てからもしるしを求めている。
何とも頼りないというか自信のないというか、そんな人間だったようだ。それに臆病だったのかもしれない。こんな奴に大事な仕事を任すような人はいるだろうか、と思う。国を救うような大事なことを任す奴はいないのでは。しかし神はそんなギデオンに任せた、そんなギデオンを選んだのだ。
モーセ
同じようになかなか神の命令になかなかウンと言わなかった人にモーセがいる。
おまえがイスラエルを率いてエジプトを脱出すると聞いてからのモーセは、わたしは何者でしょう、どうしてそんなことをしないといけないのか、と言ったのを皮切りに、神の名前を聞かれたらどう答えましょうか、みんなから主がおまえなどに現れるはずがないと言うだろうとか、わたしは口べただから、とか、だれか他の人を見つけてくれと言った。さんざん神からなだめられてやっと仕方ないからやろうか、という感じだった。
あの出エジプトをした中心人物のモーセにしてもそうだった。
共にいる
神の呼びかけ、召しはあまりに突然だ、ということみたいだ。そのための準備期間なんてあるのかないのか知らないが、確かに突然これをしろ、といった感じではある。
そんな突然の命令を聞いた若い未熟なエレミヤが躊躇したのも当然のように思う。自分がどうやってするのか、自分にどうして出来るのか、そんなの無理だ、したくない、そう思うのも当然だ。
そんなエレミヤに対して神は、わたしがあなたと共にいて必ず救い出す、と約束する。これが神の保証なのだ。
ギデオンに対しても「わたしがあなたと共にいるから、あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すようにうち倒すことが出来る」(士師記6:16)と言われている。
「私は何者でしょう」と尻込みするモーセに対しても神は「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」(出エジプト3:12)と言われている。
3人とも神は自分が共にいるからやりなさい、とそれぞれの務めにつくようにされている。神が共にいるからこそ神の務めを行うことが出来るということだろう。
神の召しは、神が共にいるから始まるようだ。その人自身が何かが出来る力を持っているから任せるというのではなくて、神が共にいるからやりなさい、と言われているようだ。
できない
何にしても、私にはできない、私にはそんな能力はない、と思うことが多いのではないか。
教会でも、私たちの教会は人数が少ないから、年取った者ばかりだから、あれもこれもできません、という話しになりがちだ。でもそんな時ってのは、大層立派なかっこいいことをしようとしていたり、どこかよその教会と同じことをしないといけないように思っているんじゃないかと思う。
私たちは神さまからどんなことをしなさいと言われているのだろうか。あるいはそれは、ちょっと待ってくれ、そんなことできないよと思うようなとても大きなことかもしれないし、あるいは分かりましたと二つ返事でできるような小さなことかもしれない。どっちにしても、神さまが自分に何をしなさいと言われているのか、それをじっくりと聞いていくことが大切なのだと思う。
神はエレミヤに預言者となるように召された。私たちは何に召されているのだろうか。教会がキリストの体であり私たちはその体の一部分であるといわれている。私たちはそれぞれの働きを任されているのだ。それは何なのだろうか。
神は、私はあなたと共にいる、だからやりなさい、と言われている。私たちは自分だけでその務めを果たしていかねばならないのではない。もしそうだったら出来ませんというしかない。そうではなく神は私たちに神自身の働きに加わるように勧められているんだろう。そうするように神は私たちひとりひとりに呼びかけておられるのではないか。