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礼拝メッセージより
「信頼」 2009年7月26日
聖書:イザヤ書 37章1-7節
脅威
今日の箇所は36章からの続きになる。36章を見ると、ヒゼキヤ王の治世第14年に、アッシリア軍がエルサレムを包囲した。その時のアッシリアの王はセンナケレリブ。
当時、北イスラエル王国の首都サマリアはすでに陥落し、有力者は捕囚としてアッシリアに連れ去られて、滅亡していた。北イスラエルからの亡命者、難民の流入で、南ユダ王国は不安に戦いている。
ヒゼキヤ王は南のエジプトや東にできたバビロンの協力を得てアッシリアに対抗しようと画策する。しかしアッシリアは南下してきてユダの砦の町をことごとく占領し、エルサレムも包囲してしまう。アッシリアの脅威が目の前に迫ってきている。
同じことが列王記下18章13節以下のところにも、ほとんど同じ内容が出て
くる。しかし列王記では、ヒゼキヤがアッシリアの王に人を遣わし、「わたしは過ちを犯しました。どうかわたしのところから引き揚げてください。わたしは何を課せられても、御意向に沿う覚悟をしています」と言わせた。アッシリアの王はユダの王ヒゼキヤに銀三百キカルと金三十キカルを課した。ヒゼキヤは主の神殿と王宮の宝物庫にあったすべての銀を贈った。またこのときユダの王であるヒゼキヤは、自分が金で覆った主の神殿の扉と柱を切り取り、アッシリアの王に贈った。と書かれている。
何とか助けてもらおうと神殿の画策している。しかしこのことはどういう訳かイザヤ書には出てこない。他はほとんど同じことが書かれているみたいだけれど。
しかしアッシリアの王はラブ・シャケを使者としてエルサレムに遣わして、ヒゼキヤ王の家臣たちにヒゼキヤ王への伝言を伝える。
エジプトなんかに頼っても無駄だ、主に頼むんでもダメだ、我々がお前達を滅ぼして来ているのは主の命令なのだ、なんてことを言う。
ヒゼキヤ王の家臣たちは、民衆の分かる言葉で言うのはやめてくれなんてことも言ったがラブ・シャケは、ヒゼキヤが主が救い出してくれるなんて言っても信用するな、どこの国の神もアッシリアから救い出してくれたところなんかない、降伏しろ、と言った。
その家臣たちからの伝言を聞いたところから今日の37章が始まる。
ヒゼキヤ王は衣を裂き、粗布を身にまとって神殿に行った。これは嘆きのポーズのようだ。アッシリアの脅威をなんとかかわそうとしてきたけれども、ここにきてもうどうしようもなくなった。一体どうしたらいいのか、ということのようだ。目の前の脅威から逃れる術はもうない、もうだめだという気持ちも少なからずあったのだろう。
ヒゼキヤは家臣たちをイザヤの元へ遣わす。もうどうしようもない、どうか私たちのために祈って欲しいということを伝えた。するとイザヤは、恐れてはならない、主がアッシリアの王の中に霊を送り、自分の地に引き返すようにする、彼はその地で剣にかけられて倒される、という主の言葉を伝えた。
センナケリブは、使者を遣わし、ユダの王に、「お前が依り頼んでいる神にだまされ、エルサレムはアッシリアの王の手に渡されることはない、と思ってはならない」と伝えた。これまでアッシリアによって滅ぼされた町の名前をいちいち出している。ゴザン、ハラン、レツェフ、テラサルは、いずれもユーフラテス河畔やチグリス河畔のメソポタミア地方にあった町。その町々に住む人たちは、神々を祀っていたが、それがいったい何の役に立ったか、何の役にも立たなかったではないかとセンナケリブは豪語し、やがてエルサレムも陥落し、その町の住民が信じていた神の無力さが暴露されると書き送った。
手紙を受け取ったヒゼキヤは主の神殿に行き、手紙を前に広げて唯一の神に祈った。「わたしたちの神、主よ、どうか今、わたしたちを彼の手から救い、地上のすべての王国があなただけが主であることを知るに至らせてください」と祈った。
イザヤは神の言葉を告げる。それは、神はアッシリアの王の傲慢な態度を赦さない、アッシリアの王がエルサレムに入場することはない、来た道を帰る、ということだった。
37:36以下には、主の使いが現れて、アッシリアの陣営で18万5千人を撃ち、皆死体となっていたので、センナケリブ王はニネベに帰り、やがて息子に殺されたということが書かれている。
絶体絶命
列王記によると、アッシリアの脅威が迫ってきた時に先ずしたことは、センナケリブ王に金や銀を贈ることだった。何とかこれで助けてもらおうとした。自分の力で、自分の策略によってどうにか何を逃れようとした。しかしそれが何の効果もなかった。神殿の金銀を贈るというのは相当に切羽詰まっていたということなんだろうと思う。残る方法はそれしかないというところだったのだろう。しかしそんな窮余の策も効果がなくなったということは、もうどうしようもない、どうしていいかわからない、絶体絶命の状態になったということなんだろう。
しかしそこでヒゼキヤ王は神に助けを求めた。イザヤに祈って欲しいと告げた。その後アッシリアの王からの手紙を受け取った時には、神殿に行き自分で祈った。
もうそれしかない、という状況だったのだろうと思う。しかしヒゼキヤ王には祈るということができた、神に助けを求めるということができた。
この時には、主がアッシリアを撃ったので奇跡的に助かった。神風が吹いて助けられた、というのと似ている気がするけれど。
信頼
神に信頼しなさい、神に信頼すれば大丈夫、と聞く。でもそう簡単に信頼できるわけではない、というのが正直なところだ。ただ信仰深くないということなのかもしれないけれど、神を信じているから不安は微塵もない、なんてことはない。いつも揺れている。神が守ってくれるから大丈夫と思える時もある。しかしそうは思ってもやっぱり不安で不安で仕方ない時もある。
頼りにできると思える物が目の前にあれば、例えばいっぱいお金があれば将来の不安は減る、お金を儲けるための仕事とか才能とかを自分が持っていれば、それなりに安心できる。
でもそういうものも頼りにならない、頼りの思えない時もある。自分の力ではどうにもならない、どうしていいのかもわからないような時もある。
何度も話すことなので聞き飽きた人もいるかもしれないけれど、昔女子高校生コンクリート殺人事件の本を読んだことがあった。女子高生に何日も暴行し、死んでしまったのでドラム缶にコンクリート詰めしたという事件。その裁判のことなどが書かれていた本だったと記憶している。少年たちが逮捕されたけれども、大変だなと思ったのはその親たちだった。自分の子どもがそんな事件を起こしてしまった親の苦しい思いが伝わってきて、自分も苦しい気持ちになるようだった。
そんな本を読んでふと思ったのは、変な話しだがこの親たちは祈らないんだと思った。どうして祈らないんだろうとも。本当は祈れない、祈ることを知らないというのが本当だったのかもしれない。
祈れるってのはだから嬉しいことだと思う。どこにも、誰にも頼れない時でさえ、私たちは祈ることができる。そんな祈る相手を持っている、知っていることはとても幸せなことだと思う。