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礼拝メッセージより
「神の求め」 2009年7月5日
聖書:イザヤ書 1章10-20節
引力
昔から宇宙のことが好きで、近頃宇宙に関するテレビがあるのを見つけて録画をして少しずつ見ている。太陽や惑星や銀河がどんなふうに出来たか、なんて話しを見るのが好きだ。
星は宇宙の小さい塵が集まって、だんだん大きくなってできたそうだ。大きくなって重くなるほどにものを引きつける力が強くなって、まわりのものを引きよせていって衝突してくる、そうするとますます大きくなっていくのだそうだ。
そういう引きつける力を引力という。余談だが、地球の外側には木星という大きな星がある。地球は木星に守られているのだそうだ。太陽系の外側から小さな惑星のような星のかけらのようなものが太陽系の中心に向かって飛んでくることがあるそうだ。そういうものが地球に衝突すると、地球ではとんでもない影響があるそうで、恐竜が滅びたのも大きな隕石が落ちてきたかららしい。でも地球に近づくものの多くは、引力の大きな木星に衝突するので、地球までくるものはごくごく少ない。そうやって地球は木星に守られているのだそうだ。
そういう風に星は大きく重くなるほどに引力がましていって周りのちりなど、星のもととなるものを引きつけて大きくなっていくが、実はお金も同じような引力があるんじゃないかという気がしている。お金もいっぱいあるところにだんだんと引き寄せられていって、多く持っている者はもっと持つようになっていき、少ししか持っていない者はどんどん持てなくなっていくのではないかという気がする。
この当時
今日の聖書はイザヤに託された預言である。当時ユダヤの国は、北イスラエル王国と南ユダ王国に別れていたけれども、どちらも経済的には発展していたそうだ。しかし貧富の差は激しくなり、腐敗がはびこり、賄賂が横行していた。金持ちは朝から酒を飲み、自分だけ、自分たち仲間だけのことを考えていた時代だったようだ。どうやって金を儲けるかということには一所懸命になっても、所謂弱い人間のことを配慮することもなかったようだ。
1:23 支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり/皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守られず/やもめの訴えは取り上げられない。
形だけの儀式
そんな金持ちたちも、宗教的な儀式を守ることは大事にしていたようだ。献げ物はそれによって神と人との関係を正常に保つためのものだろう。きっとその献げ物をすることによって当時の人たちは正しいことをしている、これで神との関係は保たれると思っていたのだろう。旧約聖書の律法には献げ物についてどういう風にするか事細かに書かれている。そしてそのとおりにしていれば大丈夫と思っていただろう。
ところが、
1:11 お前たちのささげる多くのいけにえが/わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に/わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。
1:12 こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが/誰がお前たちにこれらのものを求めたか/わたしの庭を踏み荒らす者よ。
1:13 むなしい献げ物を再び持って来るな。香の煙はわたしの忌み嫌うもの。
と言われている。
またいろいろな祭りについても、本来は神が自分たちに対して恵みを与えられたこと、神の大いなる業を見せて下さったことを記念して行っていたことだった。つまりそれは神が自分たちを顧みてくれていることの証しだった。祭りを行うことで、神が顧みてくれていることをまた思い起こしていたようだ。
ところがそれについても
新月祭、安息日、祝祭など/災いを伴う集いにわたしは耐ええない。
1:14 お前たちの新月祭や、定められた日の祭りを/わたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。
さらには祈りについても
1:15 お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。
祈りを神は聞かれないという。ならばどうすればいいのか。もうとり返しのつかない状態のようだ。
形と中身
神を信じること、神に従う、神の声に従うとはどういうことか。礼拝に出席して、祈って、という風に、自分が神の見つめて神についていくことと思うのではないか。つまりそれはただ自分と神との関係であって、脇目もふらず神の方をしっかりと向いて、いつも主よ、主よ、と言っていくことが信仰深いことだ、と思うのではないかと思う。
でもイエスもこんなこと言っている。
ルカ6:46 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。」
マタイ7:21 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」
では天の父の御心とは何か。
1:15 お前たちの血にまみれた手を
1:16 洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ
1:17 善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。
神を信じること、神に従うこととは、ひたすら天を見上げることではなく、横を見て孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護することだ、と言われるのだ。
そういう者たちのことを放っておいて、ただ天を見上げて祈っても神は聞かれない、虐げられている者たち、苦しんでいる者たちのことを顧みないことは神の御心ではないということだろう。
隣人
今年の教会の標語は、ひとりひとりを大事にする教会となっている。私たちの教会にも苦しんでいる者や悲しんでいる者たちがいる。いろんな重荷を負いつつ一緒に礼拝している。そんなひとりひとりを大事にすること、それはただ親切でそうしましょうということではなく、それこそが神を信じること、神に従うことだからだ。
聖書は、神を愛し隣人を愛するようにと繰り返し伝えている。見えない神をどうやって愛するのか。どうやったら愛せるのか。それこそ、ただ主よ主よ、と言っていれば神を愛することになる、なんてことではないのだろう。
実は私たちは、隣人を愛することを通して、神を愛することが出来るのかもしれない。よく考えると隣人を愛するということは大変なことだ。面倒なことだ。でもそうやって目に見える隣人を愛することを通して、初めて目に見えない神を愛することができるような気がする。面倒なことかもしれない、けれどもそこに何ものにも代え難い喜びがあるのだろう。