前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「イエスの名によって」 2009年6月28日
聖書:ヨハネによる福音書 16章25-33節
別れ
いよいよ十字架が迫ってきている状況。弟子たちの別れが迫っている中での説教。告別説教の最後の所。
自分はいなくなる、しかし弁護者である聖霊がやってくるという約束を語った。
わたしの名によって
そしてその日には、とはイエスが父のもとに帰る時ということだと思うけれども、その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる、という。
お祈りの最後の所ではよくイエスの名によって祈ります、という風な言い方をする。必ずしなければいけないということではないけれどもそういう風に祈りなさいと教えられてきたし、そういう風に祈ることも多い。そしてそれはイエスの助けによって祈るとか、イエスが保障してくれることによって、言わばイエスが保証人となってくれることを願ってそう祈っているのかと思っていた。
でも今日の所を見ると、イエスの名によって願うのは、私たちが直接父に願うようになるからだ、ということのようだ。それまではイエスが私たちに替わって願ってくれていたけれども、これからは私たちが直接父なる神に願うようになるから、そうできるようにイエスがしてくれたから、その道筋をイエスがつけてくれたから、だからイエスの名によって願うようにということなんだろうと思う。
そしてそうやって父なる神に直接願うことができる根拠は、イエスは、「父ご自身があなたがたを愛しておられるから、あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出てきたことを信じたから」だと言う。
父なる神が私たちを愛してくれているから、私たちは直接父なる神に願うことができる、そしてそのことをイエスが伝えてくれたから、イエスの名によって願うということのようだ。
そして23-24節を見ると、「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられる。あなたがたは喜びで満たされる。」と言われている。
願ったら与えられると言われている。本当なんでしょうか。だったらあれもこれも何もかも願いたいと思う。願っていることはいっぱいあるのに、祈っていることはいっぱいあるのに、与えられてないと思うのはどうしてなんだろうか。願ってないからなんだろうか。それとも願い方が悪いのだろうか。
平和
これからイエスは捕らえられ十字架にかけられ処刑される。その時弟子たちは散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりにすると言われている。
これらのことを話したのはあなたがたが私によって平和を得るためである、と言われる。平和は平安というふうに訳される聖書もある。
自分たちの師匠である、人生を掛けてついてきた先生が犯罪人同様に処刑されるという事態になった時、結局弟子たちはみんな逃げ出してしまったようだ。
ペトロはイエスについて大祭司の屋敷までいったけれども、イエスのことを聞かれると知らないと答えた。
弟子たちにとって想像もしてなかった非常事態になったしまったのだろう。しかしそうやって弟子たちが散らされることもイエスにとっては了解済みだったようだ。弟子たちのことはよく分かっていた。人間性も、弱さもよく分かっていた。そして大変な時に挫折してしまうような人間であることも分かっていたのだろう。人が生きていく上では、挫折や失敗など、いろんな苦しいことがいっぱいあって、自分のダメさやだらしなさに打ちのめされるようなことがあるということもイエスは分かっていたのだろう。
私たちは自分の嫌な面を誰にも知られたくないと思う。こんなこと知られたら嫌われるんじゃないか、相手してくれなくなるんじゃないか、冷たくされるんじゃないかと心配して自分のいい面だけを見せようとする。そうやって本当の自分を隠すのはとても疲れるし、いつもびくびくすることになる。
でも嫌われたくないとか友だちをなくしたくないとか思って、自分のありのままを見せないようにしてしまうことがある。でも、実はありのままを見せても友だちでいてくれる人はいて、ありのままを見せて遠ざかっていくのは本当の友達ではない、なんてことも聞く。案外自分が思っているほど自分の本質は隠せてない、実はばればれということが多いのかもしれない。それでも遠ざからないで近くにいてくれる人はいてくれる。それが本当の友達なんだろう。
隠しておきたい思うような自分の弱さやだらしなさのようなことを知られているというのは、結構楽というか安心できることなんだと思う。
あなたがたが散らされると言われているということは、イエスが弟子たちに、あなたたちが強い人間でないことも分かっている。自分を裏切ることも何もかも分かっている、分かった上で愛しているのだ、だから良い格好をする必要もない、何も隠さなくてもいい、自分のだらしなさや醜さがばれたらどうしようと心配することもない、そんな心配はするな、ということなんではないかと思う。失敗したっていいだ、挫折したっていいんだ、そんなあなたたちを愛しているのだ、と言うことなんだろう。
これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るため、と言われているのはそういう意味もあるのではないかと思う。
勝利
そして最後の最後に、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と言う。
世に勝っているんなら苦難にあわせないでくれ、と思う。けれども現実にはイエスが言うように苦難がある。いっぱいいっぱい苦難がある。
しかしイエスは既に世に勝っているという。
私の名によって願いなさい、そうすれば与えられると言われる。
けれども私たちに見えているのはいっぱいの苦難となかなか願いどおりにならない現実、なかなか思ったようにならない現実ばかりだ。イエスの勝利を直接見ることもできないように思うし、また私たちが一所懸命に願うことも、なかなか叶わないのが現実だろう。そして自分のダメさや至らなさや醜さや弱さや、そして不安が私たちの目に前に鎮座ましましている。一所懸命に探しても私たちの希望となるようなものはなかなか見つけられない。
けれどもそんな真っ暗闇の中にあるような私たちにイエスは見えないところから語りかけている。「私の名によって願いなさい、そうすれば与えられ、喜びで満たされる。勇気を出しなさい、わたしは既に世に勝っている。」
私たちの現実は真っ暗闇かもしれない。しかしイエスは静かに、しっかりと語りかけてくれているはずだ。
主よ、私たちの心の中にその言葉を届けてください。