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礼拝メッセージより
「神の召し」 2009年7月12日
聖書:イザヤ書 6章1-13節
召命
イザヤが預言者として立てられたのは、ウジヤ王が死んだ年、紀元前739年だった。ウジヤ王は列王記下15章を見ると、別名アザルヤと言い、16歳で王となり52年間エルサレムで王位にあり、「主の目にかなう正しいことをことごとく行った」と書かれている人物である。このウジヤ王の死はユダ王国に住む人たちに大きな不安を与えたそうだ。
そんな時にイザヤは幻を見た。幻ってなんなんだろう。どんな風に見えるのだろう。預言者って、言葉を預かる者って書いているように、神の言葉を預かる人だけれど、その神の言葉をどうやって預かるのだろうか。耳に聞こえるのだろうか。それとも文字が浮かんでくるのか。情景が浮かんでくるのか。それとも幻として情景も見えて声も聞こえるのだろうか。
神の声が聞きたいと思う。説教の時に何を語ったらいいのかを聴かせてくれたら本当にいいのにと思う。
イザヤは天にある御座に主が座っていて、衣の裾が神殿いっぱいに広がっていて、上の方にはセラフィム、セラフィムとは六つの翼を持つ蛇のような天使だそうだが、そのセラフィムがいて互いに呼び交わしていたというので二人いたのだろう。そして「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」と唱えていた。その「声によって神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた」。敷居が揺れ動くってどれほどの声なんだろうか。
イザヤは、「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の何か住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た」と言った。当時神を見た者は死ぬと考えられていた。汚れた者が、聖なる神を見ると死んでしまうと考えていたようだ。
神の姿がどんなだったのか、衣がどんなだったのか、よくわからないけれども、イザヤは聖なる姿に圧倒されてしまったということなんだろうと思う。こういうのを読むと、どうしてこういうことを文字で残したんだろうかと思う。絵に描いてくれてたら本当に分かりやすいのに。
神の姿がどんなだったのか定かではないけれども、イザヤは汚れた者はそこにはいられない、死んでしまうという恐れを持ったようだ。そこでセラフィムのひとりが祭壇から火鋏で炭火を持ってきてイザヤの口に触れさせて、そのことでイザヤの咎は取り去られ、罪は赦された、と言った。やけどはしなかったのかと心配になるけれども、罪は赦されたと言われることで、イザヤは、もう死ぬことはない、そこにいても大丈夫だと安心できたことだろう。
その時、「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」という主の声を聞いたイザヤは「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と言った。
ここを見ると、イザヤは神の召しにすぐ答えたみたいだ。聖書の中には神からの召しになかなかはいと応えない人がいっぱい出てくる。モーセも、でも、でもと何度も言っていた。それに比べるとイザヤは随分と潔いという気もする。信仰熱心だったのかもしれないけれど、でも流石にこんな幻見せられて、つまり神のきよさを見せられて、きっとすごいと感動し、でも神を見たから死んでしまう、どうしようと不安になっていると、今度は罪を赦されたと言われてほっと安心したのだろう。そこで誰が行くだろうか、なんて言われても、幻の中には他にはきっと誰もいなかっただろうから私が行きます、というしかないんじゃないかという気もする。
実は最初からイザヤが自分からわたしを遣わしてくださいと言うように仕組まれた幻だったのではないかという気がしてきた。これはひねくれた見方かもしれないけれども、神の召しってのは、誰かいませんかとみんなに呼びかけて、それに対して熱心な人が応えていくというよりも、あなたにこれをしてほしい、あなたを選んだんだ、というようにピンポイントで選んでいるような気がする。
イザヤも神に選ばれたのだろう。そして幻を見せられた。
イザヤは神に押し切られているような気がする。普通何か物事を頼まれる時は、それが自分に出来るかどうか、自分がふさわしいのかどうかと考える。考えて出来そうだと思えば受ける。けれどここでイザヤはそんなこと何も考えていないような気がする。そんなこと考える暇がないというか、神のすごさというかきよさというか、幻で見せられた出来事にただただ圧倒されているという気がする。だからイザヤにとっては神の召しに応えるか応えないかという選択肢自体がなくて、ただただ神の呼びかけに素直に従っていったというようなものだったのではないかと思う。
けれども神の選びだからと言っても楽しい嬉しいことばかりではなかった。イザヤに託された神からの務めはとてもつらいことだった。聞け、しかし理解するな、見よ、しかし語るな、と言われているように、また、悔い改めていやされることのないために、と言われているように、民が聞きたくない厳しいこと、国がやがて滅びるというようなことを語り続けるということだった。耳障りの良い言葉を語って、みんなから賞賛を浴びるようなことであれば楽しかったかもしれないが、イザヤに託された言葉は民にとっては耳に痛い言葉だった。しかしそれはやがては民を神の元へ呼び戻すための大切な言葉だった。イザヤに託された務めは、大事な務めだった。
イエスも「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」と言われたことがあった。
今日この礼拝に来ているのも、実は神が私たちを選んでここに呼ばれているのかもしれない。きっとそうなのだろう。たまたまだと言ってしまえば言えなくもないだろう。けれどもやっぱりそれだけではないのではないかと思う。私たちひとりひとりを神が選んだとすれば、それはすごいことだ。
聖書教育にマザーテレサの、『主よわたしをお使いください』という祈りが載っていた。
「主よ、今日一日
貧しい人や病んでいる人を助けるために
私の手をお望みでしたら
今日、私のこの手をお使いください。
主よ、今日一日 友をほしがる人々を訪ねるために
私の足をお望みでしたら
今日、私のこの足をお貸しいたします。
主よ、今日一日
優しい言葉に飢えている人々と語り合うため
私の声をお望みでしたら
今日、私のこの声をお使いください。
主よ、今日一日
人は人であるという理由だけで
どんな人でも愛するために
私のこころをお望みでしたら
今日、私のこのこころをお貸しいたします。
私があなたを選んだ、あなたにそれをしてほしい、私たちにも神はそれぞれに大切な務めを託されているのではないか。
あなたにこれをお願いしたい、耳を澄まして神からのそんな声をしっかりと聞いていきたい。その声に応えていきたい。