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礼拝メッセージより
「つながってる?」 2009年6月21日
聖書:ヨハネによる福音書 15章1-10節
ぶどう
ぶどうはパレスチナ全域で栽培されていた。そして良い実を得るためにはとても手間のかかる植物なのだそうだ。ぶどうの木はすごい勢いで成長するので、徹底的に刈り込む必要があるそうだ。そしてぶどうの若木は植えられてから3年間は実を結ぶことをゆるされない。よりよく生育するために毎年徹底的に切り落とされてしまう。成熟した木は、12月から1月にかけて刈り込まれる。実のなる枝と実のならない枝とがあって、実のならない枝は木の力を浪費させないために徹底的に容赦なく切り落とされる。ぶどうはこのように切り込みをしないと収穫を得ることができない。
またぶどうの木は柔らかすぎて何にも利用できない。切り落とされた枝は燃やしてしまうしかなかった。
つながってる
イエスは自分のことを、わたしはまことのぶどうの木である、という。そして私たちはイエスにつながることで実を結ぶ、そんなぶどうの枝であるというのだ。ぶどうの枝がぶどうの木に繋がっていなければ実をむすぶことはできるわけがない。枝は木に繋がることで水分や栄養を貰っている。繋がっていなければ生きていくこともできない。そんなことは説明する必要もない、誰もが知っていることだ。
そして私たちとイエスとの関係は、そんな枝と木の関係と同じであるというのだ。要するに、つながっていることが大前提、つながっているから生きていける、つながっているから実を結ぶことができる、離れてどうやって生きていこうなんてことも考えられないようなそんな関係なのだ。
電気
会社に行っていた時は変電所に納める装置を設計する部署にいた。部署にいたというよりも部屋にいたと言った方が近いのかもしれないが。
そこでは送電線を守る装置を作っていた。例えば送電線に雷が落ちると、送電線と鉄塔との間に電気が流れるという事故がおこると、大量の電気が流れることがあるらしい。そういう時に送電線や、送電をするシステムを守るために、事故が起きている区間の電気を切らないといけない。変電所にはブレーカーの大きいような装置があって、そのブレーカーに指令を出す装置を作っていた。
その指令は切るだけじゃなくて、切ってすぐにまたつなぐと事故が復旧することも多いそうで、一瞬切ってまたつなぐということをする。それでダメならまた切る。コンマ何秒かでその指令を出している。
近くで雷が鳴っている時に、電気が一瞬暗くなってまたすぐに点くということがよくあるが、それはその手の装置が働いているのだと思う。昔はしばらく停電することがよくあったけれど、最近は指令を出す装置も送電のシステムも発達してほとんどなくなった。
電気ってこのイエスのたとえに似ていると思う。
電灯は一瞬でも切れると停電すると暗くなってしまう。今使っている電気は今作っている電気。今電気が点いているということは、今発電所で発電機がまわっているということ。発電機につながっていることで初めて電灯も光を放つことができる。
電灯が光り続けるためには発電機につながっていなければいけないように、あなたたちは私につながりなさい、とイエスは言われているようだ。
つながる
では、イエスにつながるとはどういうことなのか。人間同士であるならば、目に見える人間同士ならば、手をつなぐくこともできる、しかし見えないイエスとつながるにはどうすればいいのか。
7節に「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」とある。私たちがイエスにつながるとは、イエスの言葉が私たちのうちにあるということ、イエスの言葉を私たちの内に持つことで私たちはイエスと繋がるということのようだ。
私たちはイエスに言葉をもらうことでイエスに繋がる。枝が水分や栄養を貰い続けて実を結ぶように、私たちもイエスの言葉を貰い続けることで生き、実を結ぶことができるのだ。
私たちに必要なものをその都度貰っていけばいいのだ。自分がいっぱい抱えて溜め込んでおく必要もない。
断水するときには、風呂場や鍋ややかんや、いろんなものに水を溜めておかないといけない。けれども水道からいつでも水が出るならばそんなことをする必要もない。私たち自身の中にどれほど溜まっているかは問題ではない。イエスにつながっていることが大事なのだ。イエスは断水することはないはずなので、私たちが蛇口さえひねればいつでも水は出てくるだろう。
喜び
「父がわたしをあいされたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」(8、9節)
またイエスにつながると言うことは、イエスに愛されて生きるというでもある。
子どもにとっては愛されることがとても大事であるように、私たちにとっても愛されることが必要なのだ。それがなくても死んでしまうことはないかもしれないが、喜びを持って生きていくにはやはり愛が必要なのだ。
「子どもはあなたの愛を待っているのよ。一対一のね。
あなたが働いてその子のパンを稼いできても、その子がほうっておかれるんじゃどうしようもないでしょう。
いま、ほとんどの人が、生活をもっと豊かにしようと、忙しく働いていて、子どもたちは両親とすごす時間がとても少なくなっています。
私たちが接している貧しい人たちは物質的には豊かじゃないけれども、ほんとうに子どもを愛していますよ。
その意味では、世界一の幸せ者かもしれませんね。」
マザーテレサ
「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」(11節)。イエスにつながるのはただ私たちが生きるため、死なないためではなく、喜びに満たされるためなのだ。
イエスにつながるということは、イエスに生かされていること、そして愛されていることを知ることでもある。子どもにとって親の愛を受けることが一番の幸せであるように、私たちにとっては神の愛を受けることが一番大事なことなのだ。だからこそイエスは私につながっていなさい、私のもとにとどまりなさいと言うのだ。
イエスにつながるということは、兎に角イエスからいろんなものを受けていくということのようだ。ただただ受けていくばかりだ。
ただただイエスからもらう、それは私たちが喜びを持って生きるため、そして実を結ぶためだ。
面白いことにその実は枝にぶら下がってできる。イエスからもらった水と栄養と愛とが私たちの中を通って実となるということだ。枝を通らないと、私たちを通らないと実はできないということだ。
イエスに愛され、隣人を愛する者となる、そんなイエスの愛を通していく枝である、あなたたちはそんな枝なんだ、だからわたしにつながっていなさい、イエスはそう言っているのだろう。