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礼拝メッセージより
「わたしを信じなさい」 2009年6月14日
聖書:ヨハネによる福音書 14章1-6節
基盤
会社に勤めていた時、入社して数ヶ月で別の工場の設計部に出向に出された。その時は朝会社の寮を出て、国鉄の駅に行って、途中でJRに変わったけど、確か7時23分発の電車で一駅先の工場に通っていた。しかしその設計の上司が機嫌が悪いとやたらと怒鳴る人で、しょっちゅう怒鳴られていたので会社に行くのがいつもいやだった。たまにその上司が出張でいないなんて時だけは晴れ晴れとした気分で通っていた。
そんなだったのでいつも朝は気が重かった。電車に乗っている時に、次の駅でおりないで、このまま旅に出たいという衝動に駆られることがよくあった。でも根が小心者なので、帰って来た時どうなるだろうなんて考えてしまうとやっぱり次の駅で降りてしまっていた。それに自分の基盤が揺らいでいる時に、そこから逃げ出しても全然楽しくもないだろうし、どこへ行っても仕事や上司のこと、逃げ出した場所のことばかり考えるに違いないと思ったのでそのまま仕事に行っていた。
結局はそこから神学校へ行ったので、逃げ出したのかもしれないけれど。
人間てのは、基盤がしっかりしていないと安心できないし、楽しむこともできないような気がする。
両親の中が悪いとかいうような、家の中が安定していない子どもは、昼間どんなに楽しそうに遊んでいても、心から楽しめないのではないかと思う。そんな子はなかなか家に帰りたがらなくて、暗くなるまで外で遊んでいると聞いたことがある。
人は安定した家がないと、しっかりした基盤がないと落ち着くこともできないし、楽しむこともできないのではないかと思う。
私たちの毎日帰るところはそれぞれにあるだろう。では私たちの魂の家というような所はあるだろうか。そこは一体どこなのだろうか。
イエス・キリストは、わたしの父の家には住まいがたくさんある、という。父なる神の家には私たちのための場所がある、と言っている。つまり天国にイエスは私たちの場所を用意してくださっている。
天国
天国というと死んだ後に行くところというイメージがある。けれどイエスがここで言っているように、天国とは、私がいるところにあなあたがたもいることになる、と言われる場所だ。イエスと共にいる所、そこが天国なのだ。だから死んだ後も、そして死ぬ前もイエスと共にいるなら天国なのだ。
道
イエスは、わたしは道であり、真理であり、命である、という。私たちの人生で進むべき道はどこなのか、イエスが招いておられるその道はどこなのか、弟子のトマスはイエスに尋ねた。イエスは私が道であるという。ならばイエスにくっついていればいいということか。
件の工場に行っている頃、横浜にいる友だちを尋ねたことがあった。中華街に連れて行ってやると言ってた約束を果たしてくれることになった。
その友だちの住む下宿まで行くことになった。お互い独身だったので、横浜と言っても結構へんぴな所だった。でも電話で道順を聞いて、それを頼りに地図を書いて尋ねていった。結構入り組んだところに住んでいてなかなか難しい。後で聞くとその友だちが周りの者に下宿までの道順を電話で教えたと言ったら、みんな無理だといったらしい。あいつなら来る、とその友だちは答えたらしいが。そして僕は実際その下宿まで辿り着いた。さすが我が友。
知らないところへ行くのに電話で、この駅を降りて、左へ行って、2つ目の信号を左に曲がって、次の角を右に曲がって、、、と言うことでいくのは確かに難しい。
イエスは私たちに対して、電話でいうようにしたのではなかった。私たちの人生を、ここでどうして、ここはこうして、と遠くから指示したのではなかった。そこで待っているから、なんて言われたら私たちはなかなかたどり着けない。
けれどもイエスは遠くから指示するのではなく、私たちと共にその道を進み、私たちの手を引いて導く、そんな仕方で私たちを招いている。私たちが何処の角をどちらに曲がるかをしらなくても大丈夫なのだ。イエスについていけば、イエスと一緒にいればいいのだ。イエスの方から迷っている私たちを探し出して、そして私たちをご自分の所へ導いてくださっているのだ。
不明
私たちにはわからないことがいっぱいある。死ぬときどうなるのか、死んだ後どうなるのか、はっきりとは分からない。先に亡くなった方たちはどこでどうしているのか、ここでこうしてます、という明確な答えを私たちは知らない。しかし、イエスが私たち全てのもののために場所を用意してくださっていること、そしてイエスと共にいることができるようにしてくださっていること、このイエスについていけば大丈夫であるということ、そのことは分かっている。 イエスは道であり、真理であり、命なのだ。そのイエスが私たちのことを愛してくださっている、大事にして、何とか自分と一緒にいようとしてくれているのだ。
生きる上ではいろいろと苦しいこともしんどいこともある。しかし私たちには帰るべきふるさと、帰るべき家が用意されているのだ。神のもとに私たちの場所もすでに用意されているのだ。安心して休むことのできる場所を用意されている。ここで休みなさい、とイエスは私たちも招いてくれている。イエス自身が道であり、真理であり、命なのだ。ということはイエスが共にいてくれる所、そこが私たちがいるべき場所、私たちが生きるべき所なのだろう。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい、休ませてあげよう、とイエスも語っている。そんな天国がもうすでにここにあるのだ。そこでこそ私たちは生きる力を得られるのだろう。イエスは命なのだ、命の源でもあるのだ。
信じなさい
だからこそ、心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい、とイエスは言われる。
私たち誰もがそれぞれにいろんな苦労を負って生きている。このごろ、花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき、という言葉をよく思い出す。最後の「き」って何だっけとか思いつつ。人生ってそんなに苦しいことばかりじゃないだろうと思っていた時期もあったけれど、やっぱり苦しいことが多いよなと思うようになっている。苦労の連続で疲れ切ってしまって、もうとても生きていられないと思うような人生を送っている人もきっといるだろう。
しかしイエスは言う、あなたのために私たちは場所を用意した、私と共にいるための場所を用意した、だから私と共にいて、私のもとで休みなさい、私のもとで命を得なさい、私のもとで生きる力を取り戻しなさい、イエスはそう言われているに違いない。私たちにはそんな帰るべき家があるのだ。ゆっくり休む家があるのだ。いろんな大変なことが待ちかまえている人生だ。しかし私たちのふるさと、安心できる居場所はしっかりと用意されているのだ。
だから心を騒がせないでわたしを信じなさいと言われているのだろう。
信じるってなんなんだろう。信じたらどうなるんだろう。信じたら私の願いを何でも叶えてくれるんだろうか。信じたらなにもかもいい方向へ変わっていくのだろうか。もちろん何もかも自分の願いがかなうというわけではないだろう。苦しいことがきれいさっぱりなくなるなんてこともないだろう。
私の人生には何でこんなことにと思うような苦しいことがいっぱいある。追い切れないような苦しさもいっぱいある。
でも道であり真理であり命であるイエスが、神であるイエスが私たちのことを心配し大事に思ってくれているのだ。
心を騒がせないで、神を信じなさい、わたしをも信じなさいと言っている。
苦しみを前にして私たちは信じるしかないのかもしれない。信じなさいと言われているから信じる、私たちにはそれしかないのかもしれない。
しかし私たちには、わたしを信じなさい、と言ってくれるイエスがいてくれる。