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礼拝メッセージより
「かかわり」 2009年6月7日
聖書:ヨハネによる福音書 13章1-15節
気になること
説教とは直接関係はないのだけれど、、、。
4月から礼拝ではヨハネによる福音書を読んでいるが、最近とても気にかかることがある。他の福音書ではそうではないような気がするのだけれど、ヨハネによる福音書ではなんだか説明が多いような気がする。それも目に見えない心の中の動きみたいなことまで説明していて、今までは全然そうではなかったのに、5月位からどうも気になって仕方ない。今日の13章でも、1節に「イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と書いている。こんなイエスの心の内側の思いが分かるのか、なんて思ってしまう。2節も3節も同じように外からは見えない内面の説明をしているけれど、確かにそうかもしれないけれど、それは分からないんじゃないか、と思うわけだ。ヨハネによる福音書ってこんなだったかなと思って見てみると結構そういうところがある。説明しすぎじゃないのかという気になっている。
足だけでなく
パレスチナの風習では、人々は祝宴に出かける前に沐浴をしたそうだ。彼らは招待された人の家についたときにしなければいけないのは足を洗うことだった。当時は道を舗装しているわけでもなくて埃っぽかったし、靴も今のようなものではなく皮を靴底にして、それに紐をつけただけのようなものだったそうだ。だから沐浴をしてきれいにしてから出かけても、外を歩くとすぐに足は汚れてしまったようだ。だから家についたときには足を洗わないといけなかった。そしてこの足を洗うというのは奴隷の仕事だった。
拒否
ペトロはイエスに足を洗われることを恐れ多いことだと拒否した。そんなことをさせるわけにはいかないという思いがあった。こんなことまでしてもらってはいけない、そんなことは自分でやります、自分でやれますということなんだろう。そんな汚いところを扱わせるわけにはいかないという気持ち、あるいはそんな奴隷の仕事なんかをさせるわけにはいかないという気持ちだろうか。
しかしイエスは、もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたとわたしと何の関わりもないことになる、と言うのだ。
あなたがたも
そして「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗わなければならない」と言った。あなたがたも足を洗いなさいと言われた。イエスのしたことは奴隷の仕事だった。身分の高い人、プライドの高い人はやりたがらなかったことかもしれないが、やること自体は特別な技術がいるわけでもなく難しい仕事ではなかった。その気になれば誰でもできること、けれどもプライドばかり持っていてはできない、人に仕えること、それをしなさいということだろう。
それは奉仕なんていう言葉さえも当てはまらないような、ほんのちょっとしたことなのかもしれない。寒いときに教会に早く来てヒーターの電源を入れることとか、誰かのためにお茶を入れることとか、礼拝に来始めた人の聖書を開いてあげることとか、そんな些細なことと思えるようなことをやっていくことなのかもしれない。
こんな話を聞いたことがある。ある教会に大学の教授をやっている人がいた。その人は聖書学者で世界的にも名前が通っているような人だった。その人は教会に来るといつも玄関でスリッパを並べていた。それを見た教会のおばちゃんが、先生そんなことしなくてもいいです、先生にそんなことさせては申し訳ないとか言ったそうな。でも教授はそんな言葉にもめげずに、自分の大事な務めだと思って続けていたそうだ。教授なのにスリッパを並べるから偉いのではなくて、誰が並べても偉いのだ。
誰かのためにちょっとしたことを、誰でもできることを、奴隷や召使いがやるようなことをやっていく、つまりそれは私はこんなことをしました、と偉そうに言えないような些細なこととか、あるいは誰でも出来るけれども、誰もがしたがらないようなことかもしれないと思う。しかしイエスはそういうことをあなたもそうしなさいと言うのだ。
関係ない?
この話しの中でとっても気にかかるのは、イエスがペトロに言ったという「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」という言葉だ。
ペトロはイエスが足を洗おうとしたときに、私の足など決して洗わないでくださいと言った。そんなことしないでください、先生ともあろう人に足を洗って貰うなんて、と思ったのだろう。けれどもイエスは、足を洗わないなら、あなたとわたしと何のかかわりもないことになる、と言われた。
ペトロにはイエスに足を洗って貰う必要があった。イエスにきれいにしてもらわないといけない汚れがペトロにはあったのだ。イエスでなければぬぐえない汚れがあったのだ。その汚れを落としてもらうことでペトロはイエスとの関わりを持つというのだ。
イエスとペトロとのかかわりとは、ペトロがイエスに立派に従っていくことで持つのではなく、イエスに足をあらってもらう、汚れを落としてもらう、それは結局は罪を赦してもらうことで初めて持つことのできるかかわりなのだろう。
私たちも同じだろう。足を洗って貰うこと、自分の汚れを、自分の一番醜いところをイエスに洗ってもらうことで、私たちもイエスとの関わりを持つことができる。誰にも知られたくないような、決して誰にも話せないような自分の一番醜い過去、醜い思い、握りしめてなかなか離せないプライド、そんなものをイエスに洗って貰うことで、そんないろんな思いをイエスにぶちまけ、洗ってもらうことで、私たちもイエスとの関わりを持つことができる。
私たちとイエスとのかかわりも、私たちがイエスに立派に従うことで持つというようなかかわりではない。毎週の礼拝を休まないで、献金をいっぱいして、いろんな奉仕を誰よりもして、そうすることで私たちがイエスとのかかわりを持てるというのではない。たとえそうしていたとしても、イエスに足を洗ってもらわなければ、つまりイエスに自分の醜いところをさらけ出さなければ、洗ってもらわないといけないようなところはありません、と言っているならば、イエスとは何のかかわりもなくなるということなのだ。
自分が醜い汚れた人間であること、赦されなければいけない人間であること、その自分を洗ってくださいとイエスにさらけ出す、そのことで初めてイエスとのかかわりが生まれてくる。
そうすると、イエスが言った、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならないというのは、ちょっとしたことをやっていくということと同時に、お互いの内面の汚い部分、醜い部分を聞き合っていくということでもあるのだろう。
教会でもというか、教会だからこそついついいいかっこをしてしまう面がある。神を信じているんだからそんなことを言うもんじゃありませんというようなことになりがちだ。何でも分かったような、どんなことでも立派に耐え忍んでますというような、どんな人でも受け入れてます、というような立派な信仰者面をしてしまいがちだ。
本当は苦しくて仕方ないのに、これも神さまからの試練ですからと平気な顔したり、感謝ですなんて言ってみたりということがある。試練だろうがなんだろうが苦しいのは苦しいのだ。その苦しさを分かって貰うことでどんなに楽になるだろうか。そんな苦しさを分かろうとしないで、クリスチャンのくせに何でそんなことを言うのか、もっとクリスチャンらしくしなさい、なんて話しになることが結構多い。そんな偉そうなことを言う人に限って自分が大変なときには苦しい苦しい、大変だ大変だと言うみたいだが。
クリスチャンのくせにそんなことを言うもんではない、という言い方は、先生のくせに私の足を洗うのですか、というのと似ている。イエスは先生のくせに、キリストのくせに、救い主のくせに、私たちの一番汚い、醜い思いを知ってくれる、そして洗ってくれる、罪を赦してくれるのだ。そうやって私たちと関わってくれている。
一番汚い思いや考え、一番苦しい気持ち、一番大変な状況、それを私に見せてほしい、話して欲しい、私に洗わせて欲しい、イエスは私たちにもそう言っておられるのではないか。