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礼拝メッセージより
「弁護者」 2009年5月31日
聖書:ヨハネによる福音書 16章1-15節
ペンテコステ
今日はペンテコステ。ペンテコステとは五旬祭。50日目。過ぎ越しの祭りから、つまりイエスが十字架につけられ、復活してから50日目。ユダヤ人にとっては麦の収穫を祝うお祭りであった。
使徒言行録2章によると、その日弟子たちに不思議なことが起こった。聖霊がやってきて、みんなが突然外国の言葉をしゃべりだした。とにかく弟子たちがイエスさまの証人となった。証言を始めた。その証言の中身がみんながびっくりするようなものだったということ。弟子たちが知らないはずの言葉で、「神の大きな働き」(使徒2:11)を語った。それを聞いてみんなびっくりしてしまった。
福音書によると弟子たちはイエスが捕まってからみんな逃げてしまった、と書いてある。自分たちの師匠が捕まってしまってどうしようもなくなっていた。自分の生活も捨て人生をかけてついてきたのに、その師匠がこともあろうに十字架につけられて犯罪人のように殺されてしまった。弟子たちは世間から隠れて、行き場もなくさまよっていたに違いない。
ペテロも、おまえはあいつらの仲間だろうと言われて、そんな人は知らないと言ったことが書かれている。ところがペンテコステのこの日、ペテロは別人のように堂々と立派な説教をしたという。
人生に挫折して、ほとんど死に掛けているような弟子たちを再び立ち上がらせた、それこそが聖霊の助けなのだ。聖霊が彼らの心の中に働きかけて、彼らの力を引き出させたのだ。死の縁にある人間を生き返らせる力を聖霊はあたえられた。
聖霊
その聖霊についてイエスが語られたのが今日の聖書箇所。
イエスがもうすぐこの世を去って行くこと、しかしその後に弁護者を送るということが言われている。13節でその方は真理の霊であると言われているようにその弁護者こそが、イエスが去った後に送ると言われる聖霊であるということだ。
その聖霊の働きはどういうものであるのかということが、8節に書かれている。罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにする、ということだ。そしてもう少し詳しい説明がその後に続いて出てくる。
『罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行く、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。』と言われている。しかし何だかよく分からない。
イエスを信じないことは罪なのか。イエスが神の子救い主であるならば、それを信じないことは罪だと言えなくもないかなとは思う。しかしそう思えない者は信じられない。そう思っても信じないということになればそれは確かに罪だと言えるだろうけれど。
義とは、正しいことということだろうけれど、イエスが父の元に行ってもう見えなくなることが正しいことなのか。その後に弁護者が来るということであればそれは正しいことかなとも思えるが、でもイエスを見たい。
裁きとは、この世の支配者が断罪されること、というのは一番分かるような気がする。でも実際この世の支配者はなかなか断罪されてないような気がする。
やっぱりなんだかよく分からない。12節を見るとイエスは「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」なんて言っている。しかし真理の霊、聖霊が来ると真理をことごとく悟らせる、という。聖霊はイエスの語ること、イエスのされたこと、何が正しいことなのか、何が間違いなのか、それを悟らせてくださる方だ、ということだ。
私はそれを聞いた時の弟子たちと同じような状態のような気がしている。今あなたには理解できない、と言われているような。
しかし聖霊はそんな私にも悟らせてくださる方なのだと思う。そしてこの聖霊は「自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げる」(13節)と言われている。また「わたしのものを受けて、あなたがたに告げる」(14節)と言われている。つまり聖霊はイエスの言葉を受けてそれを私たちに告げる、私たちに理解させ悟らせる、言わばイエスの代弁者というか、イエスの見えない姿、イエスの霊、というような方のようだ。
ヨハネによる福音書が書かれた頃、ユダヤ人の中にもイエスを信じる者たちも増えてきていた。ユダヤ教はローマ帝国にも認められていて、皇帝礼拝も免除されていた。ユダヤ教からキリスト教へと改宗した人の中には、同じ神を礼拝しているからということもあり、昔からの習慣でもあったということもあり、ユダヤ教の会堂で礼拝を続けていたようだ。しかしだんだんとキリスト教徒が増えてくると、ユダヤ教側としても放っておけなくなり、キリスト教との違いを明確にする必要が出て来て、キリスト教は異端とされ会堂から追い出されるということになった。2節で人々はあなたがたを会堂から追放するだろう、という言葉があるが、ユダヤ人たちはそうすることが神に従う正しいことだという信念のもとにキリスト教徒を会堂から追い出すことになった。そうするとキリスト教徒は皇帝礼拝を強要されるということに直面されるということに直面することになり、そこで信仰を守ると言うことは命がけのこととなるという危機にさらされることになった。
イエスはすでにこの世から去っている、そしてそんな危機に直面した時に弟子たちが思い出したのが、この弁護者を送るというイエスの言葉だったのかもしれないと思う。イエスに会うことはできない、しかし弁護者が、真理の霊が、自分たちを助けてくれている、自分たちが何に従っていくべきかを、何を信じていくべきかを教えてくれるのだということを支えにしてきたのだろう。
弁護者
小さい頃から何か悪いことをするとばちがあたると言われてきた。人にはばれなくても神さまが見ているんだから、と言われてきた。
神さまってそうやっていつも自分を見張っているような方なんじゃないかという気持ちがある。自分の間違いや、自分のダメなところをいつも指摘して、断罪するような、そんなイメージがある。要するに裁判の時の検察のような感じ。
でもここでイエスは聖霊について、弁護者だと言っている。前の口語訳では救い主と訳されている。
聖霊は、私たちの罪や間違いを一つも見逃さないために私たちを見張っているのではない。そのためにいつも私たちと一緒にいるのではない。そうではなく、私たちを助けるため、私たちを弁護するためにいつも一緒にいるのだ。
イエスは、世の終わりまでいつも共にいる、と約束してくれている。イエスは目に見えない霊として、真理の霊として私たちと世の終わりまで共にいてくれるのだ。苦しい時も、悲しい時も、嘆いている時も、共にいてくれている。