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礼拝メッセージより
「だれのところに」 2009年5月17日
聖書:ヨハネによる福音書 6章60-69節
すごいこと
「百万人の福音」と雑誌がある。大学の時、だからもう20年以上前だけれど、同じ大学の別の教会に行っている、所謂熱心なクリスチャンと言われるような人がいて、その人がよく言っていたことがある。それは日本のクリスチャンの割合は人口の1%程度しかいない、一億人の1%は100万人、そこで百万人の福音なんだろうけれど、いつまでたっても百万人のままだ、二百万人の福音、三百万人の福音にいつなるのか、そんなことを言っていた。それが20年以上前の話しで、今でもやっぱり「百万人の福音」という名前のままのようだ。日本の教会は、日本のクリスチャンは何をやっているんだ、もっと伝道してクリスチャン人口を増やせという彼の声が聞こえてきそうだ。
日本の教会は、日本のクリスチャンは力がないとは伝道が足りないとかいうことを聞くことも多いし、そんなことを聞くと自分達に力がなく、働きも足りないということを責められているような気になって余計に力がなくなりそうだ。
ところが、これは牧師になってから他の牧師から聞いた話だけれど、日本のクリスチャンはすごい、たった1%しかいないこの社会の中で、99%は異教徒という社会の中で、信仰を守っているということはすごい、と言っていた。欧米のように、石を投げたら大概クリスチャンに当たる、というような世界で信仰を守るのは簡単なことだけれど、日本のこの社会の中で圧倒的少数である中で信仰を守るのは大変なことだ、それをやっている日本のクリスチャンはすごい、と言っていた。
そう言われるとそうだなと思う。大なり小なりまわりとのいろんな摩擦がある。まわりとの違いとか個性とかいうのをあまり尊重されない、なかなか認められないこの日本の社会の中で、クリスチャンを続けることは大したことなんだと思う。
伝道が足りないとか言われると元気がなくなっていくけれど、すごいと言われると元気になりそうな気がするけど、どうでしょうか。
弟子たち
今日の箇所は弟子たちの多くの者が、イエスの話しに対して、実にひどい話しだ、だれがこんな話しを聞いていられようか、と言ったというところだ。
一体何なのか全く分からない、というのが正直な気持ちだ。こんなことが書かれている箇所があるなんて知らなかった。
このヨハネによる福音書が書かれた時代、ユダヤ教の正典を決めるための会議であるヤムニア会議というのがあったそうだ。どれを聖書の中に入れるのか、ということを研究して討論して決定する会議だったようだ。
ユダヤ教の専門家が、当時パレスチナを支配していたローマ帝国の許可のもとにその会議を開いた。そのようにユダヤ教はローマ帝国から認められていた宗教だった。ローマ帝国では皇帝崇拝をしないといけないことになっていたけれども、偶像崇拝を否定しているユダヤ教の人たちはそれを免除されていたようだ。ユダヤ教徒であれば皇帝を崇拝しなくてもいいということだったようだ。
キリスト教も最初はユダヤ教の一部と考えられていたようだが、そのヤムニア会議で、イエスをキリストと告白する一派を異端とする、ということが決められた。イエスをキリストと告白する者はユダヤ教徒ではないということになった。ユダヤ教徒であるならばローマ帝国からも認められていた、皇帝崇拝をしなくても咎められることはなかった。しかしユダヤ教徒でなくなると皇帝崇拝をしないといけなくなる。しかし皇帝と言えども人間である者を神として崇拝することはできない、しかしそうするとローマに背く者として迫害される。そして後々命の危険にもさらされることとなった。
ユダヤ教側から異端とされたことで、イエスをキリストと告白する者たち、つまりキリスト教側は非常に厳しい状況に立たされることとなった。
そんな状況の中でヨハネによる福音書は書かれた。今日の箇所も背景にはそんな教会の苦しい状況があったようだ。そのために多くの人たちは動揺して教会からも去っていったようだ。「実にひどい話しだ。だれがこんな話しを聞いていられようか」と言って去っていったのかどうかははっきりしないけれど、兎に角多くの弟子たちが去っていったようだ。そして少しの者が残ったのだろう。ここでは12人が、これはどうやら12使徒のようだけれど、12人だけが残ったかのようにも見える。しかしその12人の中に悪魔がいる、なんてことも言われている。
残ったから偉いとか立派だというわけではないということなんだろうと思う。残った者の中にも悪魔と言われるような部分を持ち合わせているということ、決して聖人だというわけではないということなんじゃないかと思う。
では多くの者が離れていく中で何故イエスのもとに残るのか、それはペトロは、イエスが永遠の命の言葉を持っているから、そんな神の聖者だと信じているからだと言った。
私たちはイエスのもとに残ったものなんだろうか。「あなたがたも離れていきたいか」と聞かれたらどうするだろうか。
直接イエスから、離れていきたいか、と言われることはないだろう。けれどイエスから離れて行った方が楽かもしれないと思うことはきっといっぱいあるだろう。周りと同じにしといた方が摩擦もなくて楽に生きていけるかもしれないと思うようなことがいろいろあるだろうと思う。
苦しい厳しい状況に直面している中でも、永遠の命の言葉があるから、イエスがそれを持っているから、私たちはイエスの下にとどまるのだ。
でもだから残っている私たちは偉いんだ、というわけではない。私たちの中にも悪魔がいるのかもしれない。偉くはない、けれどもイエスこそが私たちに永遠の命の言葉を語りかけてくれるから、私たちはイエスの下にとどまるのだ。失敗したり挫折したり、時には離れていったりもしつつ、時には悪魔と言われつつ、けれども永遠の命の言葉を聞き続けていきたいと思う。
周りとの摩擦がないことが、周りにあわせることが言い人生とは限らない。却って根無し草のような安定しない人生なんだろうと思う。
イエスの言葉こそ、私たちにとっての基盤となる、支えとなる言葉なんだと思う。風が吹くことも雨が吹き付けることもある人生だ。それを支えてくれるのがイエスなのだ。だから私たちはイエスの下にとどまるのだ。